私はサケオと申します。私の一生について話そうと思います。

私たち鮭は生まれたときから父や母の顔も知らずに、愛情を受けずに育っていきます。さらに生まれるとスグに本能のままに海に向かって川をくだります。両親探しの旅が始まるのです。「かあちゃーん!とうちゃーん!今から探しにいくからなあ!」

まだ体の小さい仲間たちと海に着くと、「さあ、どこにいこう!」。みんなで群れをなして遠い海にまで探しに行きます。けど海には外敵がたくさんいます。体はまだ小さいので、途中で他の魚に食べられてしまう仲間もいます。親友のサケ太郎はカツオに飲み込まれてしまいました。それでも「元気出して探そうぜ!!」と、力を合わせてみんなで遊んだりするのです。

生まれたころは1cmもなかった仲間たちも2年もすると50cmにもなりました。私の体は47cmと小ぶりですが、誰よりも元気で正義感があります。先だっても仲間のサケ子がイカに襲われそうになったときに、イカの目をつっついて助けてあげました。それからサケ子は私の彼女です。

3年も経ったある日、サケ子は「サケオさん、そろそろ二人の子供がほしいわ。」と私に告白してきました。私も気持ちは同じでしたが、少し悩んだ末、「よし、子供を作ろう!」。もう両親を探すことを諦め、新しい家族を作ることを決心しました。そう思ったら、本能的に二人とも行き先は生まれ故郷の川を目指しました。姉のサケ美と、その彼氏サケ吉も結婚を決意し、故郷の川を目指すことを決意しました。それ以外の友人たちもみんなそれぞれカップルになって団体で故郷をめざすことにしました。気がかりなのはサケ朗です。一緒に帰るとは言ったものの、彼女がいません。私は「大丈夫だよ。川が近くなって、親戚に会ったら、誰か紹介するからさ!!」、と元気づけました。

それから1年も経つと、体長も80cmになりました。サケ子のお腹も大きく、顔立ちも優しくなってきたようです。「優しい子供が生まれるといいわね。」などと話している時です。

「ザバアアアアア!!!」とすごい音がしたかと思ったら、仲間が「気をつけろ!!!人間が仕掛けた網だ!!!」ふと隣を見ると、サケ子の胸ヒレが網に引っかかってます。

「コノヤロー!!!」

私は必死の思いで救助に行きました。サケ子をなんとか助けたとおもったら、私の背びれが網にかかり、どんどんひきあげられていきました。もう逃げられません。

「サケオさーん(涙)」

「サケ子ー!!オレはおいしい荒巻鮭になるから大丈夫だー!!あとはサケ朗とかわいい子供をたくさん作ってくれよー。」

 というわけで、私は立派な荒巻鮭になりました(笑)。

サケ子とサケ朗は力をあわせて川上まで上って立派な子供たちを作ったあと、すべての力を出し切って、笑顔で川に浮いていたそうです。

今年の正月に、いわきの小名浜港で一番高価な荒巻鮭を見ていた時の妄想です。とてもおいしいサケオでした(笑)。

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50歳を目の前にして、物忘れが多くなってきました。

先日、仕事で横浜に行くことがありました。東京、横浜に行ったら、必ず買ってくるものが横浜名物「シウマイ弁当」です。私の中では、日本で最もバランスのとれた絶品弁当だと思ってます。

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甘辛く煮たたけのこ、身の薄い鳥のから揚げ、かつおの甘辛煮、かまぼこ、そしてシウマイです。ご飯にかかったゴマ塩がまた食欲をそそります。ただ不思議なのがアンズです。これをどういったタイミングで食べたらよいのかが今でもわかりません。

新横浜駅に着いたら、崎陽軒に行きます。新幹線の中で食べる分、明日の昼食、夕食分の3つと、弁当の中に入っているシウマイよりグレードの高い特選シウマイを一箱買います。ビールは2本です。特選シウマイをつまみにシウマイ弁当を名古屋駅に着くまでに食べ終えて、名古屋から新大阪までは、新幹線の車内で氷付きのウイスキーをチビリチビリと呑むと、一日の疲れなんて吹っ飛ぶのです。

いつものようにフルセットを買いました。おっと、車内で読む夕刊フジを買い忘れました。荷物をおいてすぐ売店へ行って買ってきました。これで完璧な幸せタイムがはじまります。

そこへ700系ののぞみがやってきました。「かものはし」みたいな顔してブサイクな新幹線だなあ。おれだったらもう少し違ったデザインにするのになあ。などと考え、新幹線に乗り込みました。

荷物を棚にあげて、上着を脱ぎます。おっと上着に財布を入れておくとあぶないから、ズボンのポッケに入れて、と。さあ、まずビールをシュポッと開けて「今日一日にかんぱーい」。

次は特選シウマイです。「あれ!どこに置いたっけ?あれ???」

ジリリリりリリリり。プシューとドアが閉まります。

ふと外を見ると、シウマイ弁当3つと特選シウマイ弁当がプラットホームに置いてあります。「ああっ!!!!オレのシ・シウマイ弁当があああああああ。」

無情にも新幹線は出発してしまいました・・・・・。そうか、夕刊フジを買いに行ったときに置き忘れたんだ。

ほかの弁当を食べる気もせず、ビールだけを飲んでフテ寝して帰ったのは言うまでもありません。



私は恥ずかしながら貧乏性なんです。

大阪に出張で来たばかりのころは毎日ビジネスホテルに泊まってました。ですから毎日掃除が入り、新しい石鹸を2個ずつ置いていってくれます。これを貯め込んでいきますから、約半年くらいホテルで小さな石鹸が200個くらい集まりました。

私は石鹸の香りが大好きなので、お風呂のときには泡をたくさんたてて体を洗い一日の疲れを癒しております。去年、部屋を掃除してたら、その当時ホテルで集めた200個の石鹸が出てきました。これをどうしよう、と考えた結果できたのが、石鹸袋でした。

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(作り方)ホテルの小さな石鹸や使用途中の小さな石鹸と、新品石鹸3個、三角コーナーのネット二枚、輪ゴム二本です。まずネットに石鹸を入れます。これをきっちりと輪ゴムで止め、さらにもう一枚のネットで大きくくるみます。これでできあがり。この石鹸袋で身体を洗うと泡だらけになって幸せになれます。そのかわり、石鹸の消費量はものすごく増え不経済です。 

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私が一番好きなのが、LUSHという店で販売されている[はちみつマーチ]という石鹸です。まず見た目がビックリ!本当のケーキのような形をしてます。また、甘い香りをプンプンさせてます。これには本物のはちみつが練りこんであるので、なめたら甘いのです。しかし、高いので、お客さんが来たときだけしか使えません。

ですから、石鹸袋に一個だけ混ぜて使うと、ほのかにはちみつの香りが楽しめ、ホテルの安い石鹸でも高級石鹸にすることができるのです。



この数年、日本では年金のことが問題になっています(本当に困ったものです)。ですから日本人の誰もが仕事を引退してからのことが不安な状態で生活しています。私もできることならば早目にリタイアして、沖縄やいわきの海の近くで当日食べる分くらいの魚を釣ったり、畑を耕したりしてゆっくりと過ごしたいな、などと考えてましたが、こうなると難しい状況になってきました。

私は一人で生活していた期間が長かったので、炊事洗濯が苦になりません。むしろ好きなほうです。しかし、高齢になって足腰が弱くなったり、病気になってしまったら身の回りのことができなくなってしまいます。こうなったら誰かに助けてもらわなければ生きていけません。こういった状態を[ 要介護 ]といいます。

17年前、母は私たち兄弟に

「私たち両親が死んで、あなたたち兄弟にお金を残すと喧嘩するかもしれないから、財産は残さないわよ」

と言い残し、私財をはたいて特別養護老人ホームを設立しました。財産などを期待していたわけではありませんでしたから、母の好きなようにしてもらって良いのですが、莫大な借金までしてはじめたので「そこまでするかー」と驚きました。現在、母は70歳をすぎているのに、まだまだ拡張計画を練っております。 

 
私「もう年なんだから、あまり無理すんなよ。人生まとめの時期に入っているんじゃないの?」

母「これは私の生きがいなの。これが無くなったら、私はボケて死んでしまっているわよ。あなたたちに迷惑かけているわけじゃないし、社会に貢献しているんだからやらせてちょうだい。」

私「はいはい、わかりました。」

母は人にまかせっきりにせず、毎日のように特別養護老人ホームで陣頭指揮をとっています。広い庭に花を植え、年に一度、施設での盛大な祭りなども企画して入所者の老人たちを楽しませています。祭りの一週間前から町中にポスターをはりまくって準備しているので、息子の私はちょっぴり恥ずかしい思いもしています。

特別養護老人ホームというのは簡単に言えば、[ 一人で身の回りのことができない介護の必要な方のための施設 ]です 。そこでかかる費用も、介護の程度にはよるらしいのですが、ほぼ年金の範囲内です。ですから、こういった施設があれ老後の不安も少し解消しますよね。そう考えると、贅沢さえしないで年金さえ払ってきちんと働いていれば老後は安心なはずです。rojinhome.jpg

そんなことを知ると、私も社会貢献しなければいけないなあ、なんて考えてしまいます。数年前の話ですが、母がタイミングよく

「老人ホームの洗濯機が壊れてしまって大変なのよ。また修理するくらいなら買い替えたいのよねー。150万円くらいする全自動の洗濯機があるんだけど、それがあったらみんな楽になるんだけどなあ」などと言ったので、つい

「じゃあオレが寄付するよ」と言ってしまいました。いざ、幸寿苑でその洗濯機を見て、私も社会貢献できるくらいには成長したんだなあ、などと感慨深く感激に浸りましたが、よく考えたらうちの洗濯機だって10年前のものなのでときどき止まってしまい、買い替えなければいけないものでした。ボロボロの洗濯機で洗濯しながら、社会貢献の大変さを知りました。



そば屋さんで注文をするとき、東京と大阪では「たぬき」と「きつね」の意味が違うので、大変ややこしいのです。。

東京の場合「たぬき」は天かすのことです。ですからたぬきそばにたぬきうどんがあります。また「きつね」はあげのことです。ですから 当然きつねそばときつねうどんがあります。

大阪の場合はこんなに簡単なものではありません。「たぬき」はあげいりそば 「きつね」はあげいりうどんなので、とてもややこしいのです。また、天かすのことは「ハイカラ」といって、ハイカラそばにハイカラうどんは存在します。

この違いの覚え方はマルちゃんのCMです。「あーかいきつねにみどりのたぬき♪」赤いきつねはあげいりうどんで、緑のたぬきは天ぷらそばですよね。 会社も関東の人と関西の人がこんがらないように名前を作ったのだと思います。

私が通ってた慈恵医大関係の人達ならば誰でも知っている「地下そば」(地下フロアにあるそば屋さんだからこういった愛称なのです) には忍者そばというものがあります。これは「きつね」と「たぬき」の両方をトッピングしたい、と考えたある先生が名づけたという逸話があるのですが、たぬきときつねの化かしあいという意味で忍者なのです。

大学病院に勤務すると必ず出張があり、地方の病院を転々とします。そしてその病院には必ず出前のそばやさんが出入りしているものです。誰が広めたのかは不明ですが、そのそばやさんの裏メニューには「忍者そば」「忍者うどん」というメニューが必ず追加されているのです。

私の究極のメニューのひとつ。地下そばの冷やし忍者そばとカツ丼。食べたーい!!!!



先日、ナガシマスパーランドに行ってきました。遊園地に行くのは15年前のディズニーランド以来です。絶叫マシンがおいてある遊園地にいたっては22年前に行った後楽園遊園地以来です。

私は遊園地でほのぼのとした時間を費やすのは楽しいと感じるのですが、絶叫マシンは「楽しい」と感じたことはありません。どちらかというと「拷問」です。どうしてあんな高いところから落とされなければいけないのか理解できません。さらに料金を支払うなんてありえないことです。

しかし友人がどうしても乗りたがってますし、いちいち「オレはきらいなんだ」ということを説明するのも面倒ですから、雰囲気的にも「ひとつぐらいつきあってやるか」と思い、乗ることにしました。

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心の中では「いやだなあ」と思いながら、絶叫マシンに乗ろうとすると、入り口に

①130cm以下の方乗車をお断りします。 「ふーん。子供だと振り落とされて危ないんだろうなあ」

②54才以上の方の乗車をお断りします。  プツン!!頭の血管が切れました。「なにー!!オレは49歳でクリアーしてるけど、あと5年経ったら、危険だというのか!ナメんなよ。乗ってやろうじゃねえか。」

若干、興奮しながら階段を昇り、絶叫マシンに乗り込みました。さあスタートです。カタンカタンとマシンは高いほうへ向かいます。先ほどまで怒ってましたが、意気消沈気味です。頂上につきました。 ガアー!!!落ちていきます!一回転します!遠心力がかかります!「ヒエエエエエー」。・・・・・・・・・・・・・・・・ガタンッ!終点です。思い切り脱力感とともに、足の力は抜け、目が回りました。やはり乗るんじゃなかった。先ほどまで怒っていたナガシマスパーランドさんにごめんなさい、と②48才以上の方の乗車を固く禁じます とあらたに提案したいくらいでした。

しかしフリーパス券を買ってしまったので、これだけでは大損です。次は大好きな観覧車に乗ることにしました。今まで見たこともない高さの観覧車ですから、さぞかし景色がいいのだろうと考え、乗り込んで一息つきました。少しずつ上っていきます。天気がよかったので海の景色が最高です。「ああ、来て良かった。」と思いきや、これは高すぎです!!三重県から大阪府が見える勢いです。足はすくみ、手すりをぐっと握りました。手からは冷や汗をかいてます。心の中で「早く下がれー」と祈りつつ、観覧車が頂点に到着したとき、カタンと音がしたかと思ったら、動かなくなってしまいました。「ヤバイ!故障だ!」死をも覚悟しました。その時です。「ただいま、体の御不自由な方の乗車をしております。故障ではありませんので、そのままお待ちください。」とアナウンスがありました。安心しました。やっとの思いで下に到着しましたが、「もう絶対に乗ってやらんぞ!」と誓いました。

ホワイトサイクロンには感心しました。全て木でできている手作りのジェットコースターです。これは後世に伝えるべき芸術品です。さすがに怖くて乗ることはできませんでしたが、見るだけでも価値のあるものです。是非行って見てください。

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このふたつの乗り物で全身脱力感です。しかしフリーパスを買ってしまったので、あとはおばけ屋敷や、ゴーカートに乗って、遊園地を後にしました。その後、ナガシマスパーランドの温泉でゆったりと湯船につかって帰りました。あーつかれた。



私たちが医師になりたての頃の話です。

医師免許に合格すると、2年間は研修医という立場になって外科系の各科をローテートします。希望科は外科、整形外科、形成外科、産婦人科でした。外科の先輩たちはとても豪快な楽しい先生ばかりで圧倒されます。その中に尊敬できる先生を見つけたりして、ほぼ心の中で「やはり外科かなあ」と決めてました。しかし、将来のことを考えると、開業するには外科では不可能だ、ということに気づいてました。そんなとき研修期間が残り一週間というところで、教授の手術につく機会があったのです。手術中に

「君は研修医だね。」

「はい!」

「外科はやりがいもあるし、楽しいだろう。」

「はい!」

1年先輩でも神様です。教授に対して、普通に話しなどできませんでした。

その晩、忘年会がありました。外科の忘年会は大騒ぎです。皆酔っ払い 楽しく過ごしていたところ、教授が時間遅れで入ってきました。部屋の空気は一瞬にして変化しました。教授は席を移動しながら、いろいろな先生方と談笑して回っています。私たちのグループにもいらっしゃいました。

「おお、君は志賀くんだね」

「はい。(うわあ!名前を覚えてくれている。感激!ドキドキ。)」

「今日の手術では、よく手が動いていたねえ(要するに手術中に気がきくということです)。外科医のセンスを持っているようだね!」

「本当ですか!ありがとうございます。」

「君は外科に入局するのかね。」

「はい。そのつもりです。よろしくおねがいします。」

ということで、この言葉で私の歴史が変わりました。翌日、先輩にそのことを自慢気に話すと、

「志賀、お前の夢を壊すわけではないけど、みんなそう言われてるんだぞ。それに昨晩の教授は呑みすぎて、泥酔してたから、帰りにオレのコートを着て帰ったんだぞ。お前に言ったことなんて、たぶん記憶にないよ。まあ自分の将来は自分で決めろよ。」

「はあ。(がっかり)」

結局、外科に入局して10年間頑張りましたが、現在に至るのでございます。



外来をしていると、「眠れないので睡眠薬が欲しいのですが。」という訴えの患者さんによく出会います。

私も長いこと不眠症でいるので気持ちはよくわかります。体が疲れていても、眠ろうとすると眠れないのです。ですから翌日が手術があるのに眠れない夜は 睡眠薬を少しだけ内服して、できるだけ体を休めるようにしてます。しかし、翌日が休みや遅い出勤のときなどは、本を読んだりDVDを観たりするので、かなり遅くまで起きています。むしろ寝るのが惜しいといった感じで過ごしております。私の生活は休みが少ないので、暇さえあれば寝ようとしますし、休みがあれば 思いきり遊ぶ不規則な生活なのです。

不眠症の患者さんにはいろいろな質問をします。「お仕事をなさっているのですか?」。「いいえ。専業主婦です。」「朝早く起きる理由があるのですか。」「いいえ。主人も定年でゆっくりしてますし、子供も結婚してしまいましたし、早く起きる必要はないのです。」「私もそうなのですが、寝ようとすると寝れないもので、起きようとしていると自然に眠くなるものですよ。お薬は出しておきますが、無理に寝ようとしなくても良いのではないですか?」「そうですね。やってみます。」

私が外科医だった時代、インフォームドコンセントされた癌の末期の方でも睡眠薬を内服していていました。私の心の中では「死に対する不安や恐怖感はあると思うけど、もう限られた命なのだから、生前にやらなきゃいけないことはないのかなあ。」と不思議に感じておりました。私は今後、30年は生きようと考えてます。やりたいことがありすぎて時間が足りません。私もいずれ死にますが、死を宣告されたら痛みのコントロールだけして、毎晩徹夜してでも人生の整理をしたいと考えてます。ですから突然死だけは困るのです。皆さんも人生は長くないのだから、眠れないのでしたら、眠くなるまで起きていたらどうでしょうか。



「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」は映画化されたり、配役を変えテレビで何度も放送されるほど有名で、良い話とされてます。しかし現代で忠臣蔵が起きたら大変なことです。殺人事件で逮捕されてしまいます。

仇(あだ)討ちは親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みをはらすことで、江戸時代、武士階級で慣習として公認されていました。人を殺しても番所(役所)に届け「仇討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、勇気ある行動と賞賛されていました。

あだ討ち禁止の最初の法律が1873(明治6年)年2月に発令された復讐禁止令です。これによって犯罪は個人に代わって国や地域社会という司法が罰するという国家的公刑罰権が確率されたのです。

私は殺人事件をみると、とても悲しい気持ちになります。殺人事件には、被害者と加害者が必ず存在するからです。ですからそんな事件のニュースがあると、両方の立場になって考えます。

もし、悪意や無差別に自分の子供が殺されたら、犯人を自分が仇討ちしても死刑にしても自分の心は晴れないと思いますし、むなしさが残るだけです。病気で死ぬというのとは意味が違います。突然、愛する子供がいなくなってしまう悲しみなど、私の想像を超えたものなんだと思います。

もし、自分の子供が他人を殺してしまったら 子供の死刑を受け入れられるでしょうか。さまざまな状況にもよりますが、更正できるものならさせたい、と考えてしまうのでしょう。しかし、殺された相手の悲しみを考えたら そんなことでは済まないはずです。子供がしたことの重大さを認めさせ、司法に委ねるしかないのでしょう。たぶん子供の育て方を反省し、一生悔やんで生きていかなければならないのでしょう。

最近、死刑廃止論というものが言われております。確かに死刑が生み出すものは少ないとは思います。だからといって死刑を廃止する、というのは間違っていると思います。やはり命には命で償うというのは大前提として、これによる抑制効果を期待しなければ事件は減らないはずです。

命は神様に与えられたものです。ひとつの命を育てるには周囲の大変な苦労と努力を伴うものです。その過程の思い出や愛を一瞬にして失ったら、周囲の人達だって生きる望みを失うはずです。

人気取りのために死刑廃止論を唱えている政治家は、そんなことよりも犯罪の起きないような世の中を作ることを考えていただきたいものです。

これから裁判員制度が始まります。どんな事件がどのように裁かれるかを見守っていかなければいけませんね。 



私は大腸過敏症です。ですから、食事を取ると20分以内に便意を感じてしまいます。

消化器外科で外来をしていたときに、こういった患者さんによく出会いました。私を含めて大腸過敏症の方は 通勤途中のどこにトイレがあるかを把握しながら生活してますし、食事内容にも注意しています。ですから私が朝食をとる場合は、食後に20分以上の時間があるときだけです。そうしないと、通勤の途中でトイレに行かなければならないからです。

その日は朝食を摂らずに出勤しました。病院に着くと、一日の予定を検討しながらアイスコーヒーで一服します。その日は胃癌の手術でしたから、4時間くらいかかる予定でした。手術中に抜けるわけにはいきませんから、そんなときは朝食をしっかりと摂って、手術にのぞみます。トーストにサラダ、アイスコーヒーを飲んで、予定通り便意を感じたのでトイレに行きました。私は、職業柄、便を観察する癖があります。血液の混入や太さ、未消化の状態を確認するのです。その日は、前日に酒を飲まなかったので、色合いの良く香り豊かな便を大量に排出しました(飲酒の翌日は下痢しやすいのです)。観察後、健康具合に大満足して水を流そうとすると、

「あれ!水がでない!!!!!!さらにトイレットペーパーがない!!!」

そのとき脳裏に浮かんだのは、「先週は確か、このトイレは工事中だったぞ。けど、ドアは空いてたから工事は終わったのではなかったのか??」

トイレットペーパーもないのでオシリも拭いてません。ズボンをはくこともできず、半端な状態でおそるおそるトイレの入り口を見ると、

「ガーン!!!工事中だああああ!!!!」

私は悩みました。手術の時間は迫っています。だからといってこのままでは逃げられません。悩んだ結果、他のトイレに行って、オシリを拭き、きちんとズボンをはいて、トイレットペーパーを握り締め、工事中のトイレにもどってきました。そのトイレットペーパーを排出物の上に置いて隠し、便器の奥におしこみました。それと「ごめんなさい」のメモを残して出ていきました。

手術前に先輩が「志賀、顔色悪いけどどうかしたのか?」

さすが医者です。見抜かれました。「いや、昨晩飲みすぎたんですかねえ。いたって元気ですよ。」

手術は問題なく成功しました。手術後、恐る恐るトイレの入り口を見てみると、ドアに「使用厳禁」と大きな紙で張り紙がしてあり、太いガムテープでドアは閉鎖されてました。まるでトイレ内で殺人事件でもあったような雰囲気でした。

心の中で「犯人はわたしです。ごめんなさい(合掌)。」と思いながらその前を通りすぎました。



2005年にその女の子はリッツ大阪院に来院しました。年齢は22歳です。スタイルは良く顔は小さいのですが、少しだけ頬骨が出ており、エラも出ているのでゴツゴツした印象でした。目は一重のスッキリした顔立ちです。

「私、綺麗になってモデルになりたいんです。」

「うーん。素質はあるよねー。どの部分を直したいというのはありますか?」

「全部!浜崎あゆみみたいになりたいんです。」

「そうかあ。ちょっと雰囲気は違うけど、そうなるとまずは目かなあ。」

数日後に瞳拡大(軽度の眼瞼下垂手術)と二重の手術をしました。目はかなりパッチリとして、全体的に明るい印象になりました。瞳は浜崎あゆみさんのように輝いてます。

「今度は輪郭を直したいんです。」

それから半年に一度くらい、手術を受けに来院します。その都度、女の子は近況報告をしてくれます。ある日

「夜の仕事をはじめてみたんやけど、指名が一番になってん。先生のおかげでモテモテやで(笑顔)。」

「へえ、すごいな。元々、素質があったんじゃない?」

次に来たときは

「先生!雑誌デビューしたで。見てなあ。」

本屋さんで周囲の目を気にしながら、そのファッション誌を立ち読みしました(ファッション誌を50歳近い男が見ていたら変態です)。それは最近の女の子が最も憧れている雑誌で、その読者モデルとして巻頭に写っておりました。

「え、うそ!かわいい!」

化粧も髪型もプロが触っっているので別人のように輝いています。

それからその女の子が来院する度に、少し緊張するようになりました。けど、その女の子の当初の予定だった浜崎あゆみさんとは違い、私の好きな小林真央さんに似てきた感じを受けるのは、私の好みのタイプのように手術してしまったということなのでしょうか。

今後の活躍を楽しみにしております。



今年の夏、兄が享年52才で他界しました。

私の尊敬する医師であり、生まれたときからの目標でしたので、この2か月間、私の心は糸のない凧のように彷徨っておりました。

しかし、そんな深い悲しみの中、とても嬉しかったことがありました。兄の通夜と告別式に1500人もの人に来ていただき、盛大に行なわれたことでした。たったひとつの魂を1500もの人に見送っていただいたのです。そんな兄は幸せ者でした。リッツ美容外科の各院からも花や電報が届き、東京院の広比院長夫婦、横浜院の阿部院長夫婦には、わざわざ東京から来ていただきました。大勢の前でしたし、精神的に衰弱しているときでしたので、そんなときに親しい人達に会い、思わず涙が溢れてしまいました。

しかし兄の四十九日も過ぎたので、いつまでもフラフラと彷徨っているわけにはいきません。私は一大決心をしました。兄が得意とする、変形性膝関節症やリウマチによる膝関節症に対する人工膝関節の手術をマスターすることです。

兄の診察していた大勢の患者さんが、いらっしゃいます。これから手術が予定されていた患者さんたちのために、私は早速行動に移しました。某大学病院の整形外科で手術を教えてもらうことにしたのです。スタートは研修医と同じです。朝早くからのカンファレンスにはじまり、手術や外来での勉強です。はじめてみると、医師になりたてのころのフレッシュな気持ちが蘇ってきました。新しい病気のことは何を聞いても新鮮ですし、興味深々です。手術の部位こそ異なりますが、骨を切ったり削ったりするのは整形外科も美容外科でも同じです。今後、美容外科での自分の技術にも幅が広がりそうな予感がします。

ですから、最近は生きていく目標を定め、元気になりました。これからまた、ブログにも取組んでいこうと思います。お休みしている間、メールで励ましていただいた皆様、ありがとうございました。

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私の小さい頃はいつも兄の後をついていくような甘えん坊だったらしいです。幼稚園の年少のときでも2つ年上の兄の教室に入っていって一緒に過ごしてました。これを先生達もあきらめて黙認してくれていたそうです。

私が小中学生のころ、周囲の推薦もあったのですが、生徒会の役員に立候補することが多くありました。中学校に入学したての秋にも生徒会の会計監査役に立候補しました。私の中学校の出身者で生徒会長をした人には中村敦夫(木枯らし門次郎)さんもおり、由緒ある生徒会でした。対立候補は2年生と3年生数名です。半年前に入学した私など勝てるはずもありません。今でこそブログなど書いてますが、文章を書くのが苦手でしたから困りました。兄に

私「明日の立会演説会の演説文考えてよー」

兄はニヤリと笑って

「いいよ。けど文章は当日まであけるなよ。それと書いてあることをそのまま読めよ。」

私「わかった。ありがとう。」

演説会の当日、体育館の壇上に登り、順番をまちます。その当時 生徒会副会長だった兄は私のほうをチラチラと見ております。順番が近づいてきました。いよいよと思い演説文を開きました。「えっ!これを読むの!うそ!」私は驚きました。兄もなにげにニヤニヤと笑っているようです。仕方ありません。約束通り読みました。

「私は しがひろおの弟 しがよしあきです!・・・・」

全校生徒1200人+先生達の大爆笑と拍手喝采の渦に巻き込まれました。私の顔も真っ赤です。黙々とつづきを読み終えて壇上から降りました。「くそぉ。兄貴に騙された!」

選挙の開票は当日でした。学校から帰った兄に文句を言おうとしたら

兄「おめでとう!!」

生徒会会計監査 当選 志賀由章(1年)787票 小沼絵里(仮名 3年)289票・・・・でした。

私の兄はどこへいっても人気者です。イケメンな訳でもなくスポーツができる訳でもありません。小さいころから あんなふうになりたいなあ、と思いながらも真似できない人間なのです。

兄が中学を卒業してからは 私の人気だけで当選することもないので、立候補することはありませんでした。

開業してからも人気者です。患者さんが朝の6時から弁当を持ってクリニックの前に並んでます。私が医師になって一番尊敬できた医師でした。



先日、福島の実家に帰りました。兄のクリニックを手伝っていたら、初老の上品そうなご婦人が注射を受けながら

「よしあきちゃん、ひさしぶりねえ」

「え!どちらさまでしたか。すいません。最近、物忘れがひどくはっきりとした記憶がないのです。でも会った事があることは記憶にあります。」

「無理もないわ。40年ぶりですもの。変わってないわねえ。私、幼稚園のときに同級だったタエコ(仮名)の母よ。」

「ええー!!!そうだ、そうです。思い出しました。お久しぶりです。」

ビックリしました。私が5歳のときの 初恋の女の子のおかあさんです。今でも幼稚園時代のことを思い出すときは 必ずタエコちゃんのことを思い出してました。タエコちゃんは 4歳のときから目鼻立ちがはっきりしていてお母さんのように上品でした。さらに手足は長く、その当時の子供の中では際立ってましたから、当然みんなの憧れの的です。小学校は地区の違いで別の学校になってしまいましたが タエコちゃんの学校の友人に彼女の様子は聞いておりました。スポーツが得意で中学のときはソフトボールをしていたこと。高校は地元に進学せず東京に行ってしまったことなど、彼女のことはたくさん知ってました。さすがに私も大学に進学してからは思い出すことも少なくなりましたが、その当時タエコちゃんの友人から手を回して手にいれた一枚の写真だけは 今でも家のどこかにあるはずです。

母「今日も私を迎えに来てくれるのよ」

私「え!そうなんですか!会いたいなあ。」

母「じゃあ。後で寄るわね」

言ってから後悔しました。医師になってからは誰とでも話せるようになりましたが、私は過度の緊張症です。学会の発表が嫌いなのも、人前に出ると緊張で手足は震え、言葉も震えてしまうからです。再開の時間が来るのを緊張して待ちました。

母「よしあき先生いらっしゃる?」

私「はーい(ドキドキ)。」

タエコ「ひさしぶりー!よしあきちゃん!。こんにちわ。」

私「あ!タエコさんですか。お久しぶりです。相変わらずお綺麗ですねー。外人さんみたい(オレは何を言ってるんだ。バカバカ)。私なんてこんなになってしまいました(全然うけないじゃないかーいわなきゃよかった。はぁ)。」

昔話で盛り上がりました。やっと緊張もとれたころに

タエコ「私の幼稚園の思い出なんてよしあきちゃんのことしかなかったわよ。」

私「えー!そうだったんですか。両思いだったんですね(いい年こいて何を言ってるんだ!バカバカ)。私もですよ。」

私は49歳なので彼女も同じなはずです。現在、彼女はダンスの先生をしているらしく美しいスタイルと相変わらずの綺麗な笑顔でした。不思議なことに今まで彼女を思い出すときは、昔に手に入れたあの一枚の写真の笑顔でしたが、再会してからは頭の中の記憶が現在のタエコさんに変わって前の記憶が消えてしまったのが不思議でした。



むかしむかし大阪に近所でも有名なはる・なつ・あき、という美人仲良し3姉妹がおりました。おめめはパッチリ。おはなはこじんまりとしてつんとしてかわいく、おくちは愛嬌のあるかわいいおちょぼぐちでした。

この3人はどこへ行くのも一緒で 洋服も一緒で髪型まで一緒なのです。ですから町を歩いていてもみんなが振り向きます。しかし髪型は3人ともシャギーで 輪郭を隠すような髪形にしてました。なぜかこの3姉妹は風の吹く日は外を歩きません。秋のある日

あき「風が吹く日はいややなあ。エラはってんのが見えてしまうわあ。」

はる・なつ「ほんまやー」

そう、この3姉妹はスタイルも良くかわいいのですがエラがはって四角い輪郭が唯一の欠点だったのです。

あき「来年から就職で 看護師さんになりたいんやけど、仕事中にこの髪型じゃあ仕事できひんしなあ。困ったなあ。」

それから3か月後、あきは一週間ほど旅行に行くといって出かけ、一週間後に帰ってきました。

あき「ただいまー」

はるとなつはあきを見て なんか違うと感じたようでした。少し太ったような感じを受けましたが、なんとなくかわいくなったなあと思ったようでした。その一週間後 あきは友人達とテニスをするので 朝からシャワーを浴びポニーテールで風呂場から出てきました。

あき「おはよー。」

はる・なつ「・・・・・・・・・(絶句)。」

はる・なつ「あんた、なんか変わった!なんかしたでしょ!言いなさいよ!ポニーテールなんかしたことなかったやんかー!」

あき「おねえちゃん ごめんね。リッツ美容外科でエラ削ってきてん。来年から就職やろー。看護師の仕事やから、髪をうしろでくくらんとあかんねん。でも、かわいくなった?」

なつ「ずるい!わたしもやるー」

はる「・・・・・・・」

翌月なつもエラを削ってポニーテールになり、性格もより明るくなりました。それから2年後 あきはイケメンのお医者さんと結婚し、なつも彼氏ができて婚約しました。のんびりやさんのはるもこれを見て、

はる「わたしにもクリニックを紹介してー」

はるが手術を受ける前日、枕元におとうさんが酔ってはるの寝顔をじっと見てこうつぶやきました。

父「とうとうお前もエラを削るのかー。ごめんなー。おとうさんがこんな輪郭だったからだよなあ。明日きれいになってこいよ・・・・。」

結局はるもエラを削ってポニーテールが似合うようになり、難波の町を仲良し3人組であるくようになりましたとさ。

この話は90%ノンフィクションです。

詳細につきましてはリッツ美容外科ホームページ:輪郭(フェイスライン)の項をご覧下さい

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美しさを作る上で最も重要なポイントは目です。目の手術は数限りなくありますが、最も頻度の高い手術は二重です。二重にすれば目はパッチリするかといえば (眼瞼下垂の問題もあるますから)必ずしもそうではないのですが 瞼がきちんと開いている一重の方が二重にすると、美しさは際立ちます。

二重の埋没法というのは、糸をかけるだけと考えている方が多いようですが、埋没糸がとれないように かつ腫れずに手術するには 局所麻酔の注入場所や層や量、薬の種類、埋没する糸の通し方、結び方の強さなど、長年にわたって研究したいろいろな秘密の技術があります。そこが他院との金額の違いでもあると自信を持って言えます。

まず手術前にはきっちりとデザインします(これが最も大切です)。そして埋没法の術後には必ずチェックしていただきます。「うわあ!全然腫れてないー!ありがとうございますー。」という言葉を期待して、自信を持って鏡を差し出すのですが たとえ誰が見ても全く腫れずにできていても、稀に「メッチャ腫れてますねー」という言葉をいただいくことがあります。そんなときは「一週間もすれば腫れはとれますからね。」とだけ言って、肩をがっくりおとして去っていきます。

なぜこんなに「腫れ」に対する感覚が異なるのか不思議だったのですが、やっとわかったことがあります。リッツ美容外科ではじめて二重の手術をした方は 人生の中で瞼が腫れたことがないので腫れを強く感じるのです。他院で埋没法の経験のある方は ものすごく腫れが強かったことが記憶にあるのでリッツ美容外科での術後の腫れの少なさに感激するのです。

実際、そんなに腫れずにできるのですが カウンセリングのときには、心の中で「腫れませんよ」と胸を張って言いたくても「一週間くらいは腫れると思っておいてください」と遠慮気味に言うようにしてます。

詳細につきましてはリッツ美容外科ホームページ:目もとの項をご覧下さい

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080801_3pado.jpgメディア掲載のお知らせです。

大阪地方誌「ぱど」最新号(8月1日発売)にリッツ美容外科大阪院のご案内をリリースいたしました。
ぜひご覧ください。

実際の記事をこちらからご覧いただけます(pdf:360KB)



今から30年前、私はサーファーでした(笑)。

日曜日になると、朝早くから友人の車にボードを積んで湘南の辻堂海岸に向かいます。辻堂に着いたら 歩道橋に登ってどこの海岸に波があるかをチェックし 波のある海岸に向かいます。波がたってないときは海沿いのR134を走って波のあるポイントまで車で移動します。

台風が通り過ぎた翌日はきれいな高い波がたつのを知ってましたから、犬を連れて一人で湘南まで行きました。その日、歩道橋から波がたっていいたのは 茅ヶ崎ホテルの前でした。茅ヶ崎ホテルの駐車場に 犬を入れたまま車を止め 海へ向かいました。波は高かったのですが 風の影響できれいな波ではありません。ただ、ボードに乗っているだけでも幸せなので 波待ちをしながらボーっとしていました。

サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」を口ずさみながら波待ちです。「海岸で若い二人が恋をする物語♪・・・・・・エボシ岩が遠くに見える♪ 涙あふれ・・・」と後ろを振り向くと 「うわあ!!!!!」エボシ岩がすぐそこにあります!!やばい!潮の流れに流されたんだ!さすがにそのときは死を覚悟しました。前日、ウインドサーフィンをしていた大学生が一晩中漂流してニュースになっていたばかりでした。海岸からエボシ岩までは1.5kmくらいです。大体1.2kmくらいは流されていたようです。

両親のことや兄弟のことを思い出しました。車の中の犬も死んでしまう!!パニックの中、私は冷静になりました。「ようし!オレは生きるぞ!!」一生懸命パドリングしました。潮の流れに逆行してますから全然進みません。でかい声で気合いを入れ、約2時間はかかったでしょうか。やっと海岸にたどりついたのです。

今でも「チャコの海岸物語」を聞くと、その時のことを思い出して背筋がぞっとします。死まで覚悟した「オレの海岸物語」です。

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この写真の左側が私です。波は小さいけどきれいに乗れてるでしょ。26年前、千葉の海岸で撮りました。



フードマイレージとは、簡単に言えば「食べ物がどれぐらいの距離を運ばれてきたか」を示し、食べ物を運ぶにあたって二酸化炭素がどれだけ排出されたかを計算し、環境汚染にどれだけ影響するかを数字で表すものです。日本はフードマイレージが世界一高い国です。つまり食料を自給率が低く、他の国からの食料依存度が高いことを示しております。

先日、福島に帰ったときに野菜や果物をたくさん買いました。農家直営の野菜は大阪のスーパーの5分の1くらいの値段で売っています。先日帰郷したときもトマトを3箱(60個)で1000円、スイカを2個で2000円、桃を1箱(15個)2000円で買いました。トマトなんて1個17円くらいですから、ペットボトルの水よりも安い値段なのです。うちのスタッフに空港で買ったお菓子をおみやげにするよりも、新鮮な野菜にしたほうが喜ばれると思い、張りきって買いました。これをかついでチェックインしようとしたところ、係員の方が重量を測定してました。

「すいません。業者の方でしょうか。」

「(だれがやねん!オレが野菜屋のおっちゃんにみえるかよ!怒!)いえ。どうかしましたか。」

「手荷物以外のお荷物は15kgまで無料なのですが、お客さまの荷物は27kgありますから、1kgにつき400円の追加料金が必要になってしまいます。」

「えー!そうなんですか?知りませんでした。」

頭の中で計算しました。超過分12kg×400=4800円!野菜や果物の値段が5000円ですから、なんと倍の値段になってしまいます。作戦を練りました。

「手荷物で機内に持って入ればよいのですか?」

「はい、それなら結構です。ですが手荷物はお一人様10kgまでとなっております。」

「でしたら、この9kgの桃を手荷物にしてもよろしいですか?」

「結構ですよ(嘲笑)。そうなりますと超過分が3kgになりますから1200円になります。」

「はい」

私は9kgの桃を肩にかついで機内に乗り込みました。福島の桃の甘い香りが機内に漂っていたのは言うまでもありません。周囲のお客さんは私のことを果物屋さんのおっちゃんだと思ったかもしれません(恥)。心の中で「どちらにしてもフードマイレージには関係ないじゃないか」とブツブツつぶやいてました。



田舎道を車で走っていると 5~6件の集落を見かけます。家の周囲に田んぼや畑があると 「農家なんだな。」で解決しますが、田んぼや畑がないのに家があったりすると、「なぜこんな不便な場所に住むのだろう?病気になったら大変だよなあ。子供の通学はどうするのかなあ。」などと考え、次第に妄想の世界に入ってしまいます。

戦国時代 豊臣秀吉は天下を統一するために全国を駆け巡ってました。秀吉の命令に背いた大名とは戦(いくさ)になります。戦になるといろいろなことが起きます。戦の途中で戦死したり、怪我をしたりすることもあるでしょう。そうなったら戦から引き上げることもできませんし、中には逃げ出す方もいるはずです。怪我をしている武士が倒れていたら、親切な地元の農家の方が家にかくまってくれたりするかもしれません。

武士「ん?ここはどこじゃ?」

老女「お武家さまは 関が原の戦いで倒れておったのを 娘のサチが連れてきて看病したのじゃ。お武家さまは もう一週間も寝てましたぞ。」

武士「サチと申すか。すまんのう。いたた!」

サチ「お武家さま!まだ傷が治っておりませぬゆえ、まだお休みになっててください」

武士「ふう。ご主人はおらぬのか、挨拶したいのじゃが。」

老女「主人は先だっての戦で死んでしまいました。見てのとおり、今は私とサチが二人で田んぼや畑をして食いつないでいるありさまです。」

武士「そうか!大変じゃのう。わしが元気になったらお礼に畑仕事を手伝って進ぜよう。」

サチ「本当ですか!ありがとうございます。」

・・・・・・その後、武士はサチと恋仲になり、武士は刀をクワに持ち替え、助けてくれたサチとその土地で子供を4人もうけて仲良く暮らしたのかもしれません。もしかしたら、あの集落はサチの子供たちなのかもしれないなあ。なんて妄想している間に「院長、着きましたよ」「ハッ!あ・ありがとう」目的地に到着してました。

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