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私はサケオと申します。私の一生について話そうと思います。

私たち鮭は生まれたときから父や母の顔も知らずに、愛情を受けずに育っていきます。さらに生まれるとスグに本能のままに海に向かって川をくだります。両親探しの旅が始まるのです。「かあちゃーん!とうちゃーん!今から探しにいくからなあ!」

まだ体の小さい仲間たちと海に着くと、「さあ、どこにいこう!」。みんなで群れをなして遠い海にまで探しに行きます。けど海には外敵がたくさんいます。体はまだ小さいので、途中で他の魚に食べられてしまう仲間もいます。親友のサケ太郎はカツオに飲み込まれてしまいました。それでも「元気出して探そうぜ!!」と、力を合わせてみんなで遊んだりするのです。

生まれたころは1cmもなかった仲間たちも2年もすると50cmにもなりました。私の体は47cmと小ぶりですが、誰よりも元気で正義感があります。先だっても仲間のサケ子がイカに襲われそうになったときに、イカの目をつっついて助けてあげました。それからサケ子は私の彼女です。

3年も経ったある日、サケ子は「サケオさん、そろそろ二人の子供がほしいわ。」と私に告白してきました。私も気持ちは同じでしたが、少し悩んだ末、「よし、子供を作ろう!」。もう両親を探すことを諦め、新しい家族を作ることを決心しました。そう思ったら、本能的に二人とも行き先は生まれ故郷の川を目指しました。姉のサケ美と、その彼氏サケ吉も結婚を決意し、故郷の川を目指すことを決意しました。それ以外の友人たちもみんなそれぞれカップルになって団体で故郷をめざすことにしました。気がかりなのはサケ朗です。一緒に帰るとは言ったものの、彼女がいません。私は「大丈夫だよ。川が近くなって、親戚に会ったら、誰か紹介するからさ!!」、と元気づけました。

それから1年も経つと、体長も80cmになりました。サケ子のお腹も大きく、顔立ちも優しくなってきたようです。「優しい子供が生まれるといいわね。」などと話している時です。

「ザバアアアアア!!!」とすごい音がしたかと思ったら、仲間が「気をつけろ!!!人間が仕掛けた網だ!!!」ふと隣を見ると、サケ子の胸ヒレが網に引っかかってます。

「コノヤロー!!!」

私は必死の思いで救助に行きました。サケ子をなんとか助けたとおもったら、私の背びれが網にかかり、どんどんひきあげられていきました。もう逃げられません。

「サケオさーん(涙)」

「サケ子ー!!オレはおいしい荒巻鮭になるから大丈夫だー!!あとはサケ朗とかわいい子供をたくさん作ってくれよー。」

 というわけで、私は立派な荒巻鮭になりました(笑)。

サケ子とサケ朗は力をあわせて川上まで上って立派な子供たちを作ったあと、すべての力を出し切って、笑顔で川に浮いていたそうです。

今年の正月に、いわきの小名浜港で一番高価な荒巻鮭を見ていた時の妄想です。とてもおいしいサケオでした(笑)。

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50歳を目の前にして、物忘れが多くなってきました。

先日、仕事で横浜に行くことがありました。東京、横浜に行ったら、必ず買ってくるものが横浜名物「シウマイ弁当」です。私の中では、日本で最もバランスのとれた絶品弁当だと思ってます。

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甘辛く煮たたけのこ、身の薄い鳥のから揚げ、かつおの甘辛煮、かまぼこ、そしてシウマイです。ご飯にかかったゴマ塩がまた食欲をそそります。ただ不思議なのがアンズです。これをどういったタイミングで食べたらよいのかが今でもわかりません。

新横浜駅に着いたら、崎陽軒に行きます。新幹線の中で食べる分、明日の昼食、夕食分の3つと、弁当の中に入っているシウマイよりグレードの高い特選シウマイを一箱買います。ビールは2本です。特選シウマイをつまみにシウマイ弁当を名古屋駅に着くまでに食べ終えて、名古屋から新大阪までは、新幹線の車内で氷付きのウイスキーをチビリチビリと呑むと、一日の疲れなんて吹っ飛ぶのです。

いつものようにフルセットを買いました。おっと、車内で読む夕刊フジを買い忘れました。荷物をおいてすぐ売店へ行って買ってきました。これで完璧な幸せタイムがはじまります。

そこへ700系ののぞみがやってきました。「かものはし」みたいな顔してブサイクな新幹線だなあ。おれだったらもう少し違ったデザインにするのになあ。などと考え、新幹線に乗り込みました。

荷物を棚にあげて、上着を脱ぎます。おっと上着に財布を入れておくとあぶないから、ズボンのポッケに入れて、と。さあ、まずビールをシュポッと開けて「今日一日にかんぱーい」。

次は特選シウマイです。「あれ!どこに置いたっけ?あれ???」

ジリリリりリリリり。プシューとドアが閉まります。

ふと外を見ると、シウマイ弁当3つと特選シウマイ弁当がプラットホームに置いてあります。「ああっ!!!!オレのシ・シウマイ弁当があああああああ。」

無情にも新幹線は出発してしまいました・・・・・。そうか、夕刊フジを買いに行ったときに置き忘れたんだ。

ほかの弁当を食べる気もせず、ビールだけを飲んでフテ寝して帰ったのは言うまでもありません。

私は恥ずかしながら貧乏性なんです。

大阪に出張で来たばかりのころは毎日ビジネスホテルに泊まってました。ですから毎日掃除が入り、新しい石鹸を2個ずつ置いていってくれます。これを貯め込んでいきますから、約半年くらいホテルで小さな石鹸が200個くらい集まりました。

私は石鹸の香りが大好きなので、お風呂のときには泡をたくさんたてて体を洗い一日の疲れを癒しております。去年、部屋を掃除してたら、その当時ホテルで集めた200個の石鹸が出てきました。これをどうしよう、と考えた結果できたのが、石鹸袋でした。

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(作り方)ホテルの小さな石鹸や使用途中の小さな石鹸と、新品石鹸3個、三角コーナーのネット二枚、輪ゴム二本です。まずネットに石鹸を入れます。これをきっちりと輪ゴムで止め、さらにもう一枚のネットで大きくくるみます。これでできあがり。この石鹸袋で身体を洗うと泡だらけになって幸せになれます。そのかわり、石鹸の消費量はものすごく増え不経済です。 

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私が一番好きなのが、LUSHという店で販売されている[はちみつマーチ]という石鹸です。まず見た目がビックリ!本当のケーキのような形をしてます。また、甘い香りをプンプンさせてます。これには本物のはちみつが練りこんであるので、なめたら甘いのです。しかし、高いので、お客さんが来たときだけしか使えません。

ですから、石鹸袋に一個だけ混ぜて使うと、ほのかにはちみつの香りが楽しめ、ホテルの安い石鹸でも高級石鹸にすることができるのです。

この数年、日本では年金のことが問題になっています(本当に困ったものです)。ですから日本人の誰もが仕事を引退してからのことが不安な状態で生活しています。私もできることならば早目にリタイアして、沖縄やいわきの海の近くで当日食べる分くらいの魚を釣ったり、畑を耕したりしてゆっくりと過ごしたいな、などと考えてましたが、こうなると難しい状況になってきました。

私は一人で生活していた期間が長かったので、炊事洗濯が苦になりません。むしろ好きなほうです。しかし、高齢になって足腰が弱くなったり、病気になってしまったら身の回りのことができなくなってしまいます。こうなったら誰かに助けてもらわなければ生きていけません。こういった状態を[ 要介護 ]といいます。

17年前、母は私たち兄弟に

「私たち両親が死んで、あなたたち兄弟にお金を残すと喧嘩するかもしれないから、財産は残さないわよ」

と言い残し、私財をはたいて特別養護老人ホームを設立しました。財産などを期待していたわけではありませんでしたから、母の好きなようにしてもらって良いのですが、莫大な借金までしてはじめたので「そこまでするかー」と驚きました。現在、母は70歳をすぎているのに、まだまだ拡張計画を練っております。 

 
私「もう年なんだから、あまり無理すんなよ。人生まとめの時期に入っているんじゃないの?」

母「これは私の生きがいなの。これが無くなったら、私はボケて死んでしまっているわよ。あなたたちに迷惑かけているわけじゃないし、社会に貢献しているんだからやらせてちょうだい。」

私「はいはい、わかりました。」

母は人にまかせっきりにせず、毎日のように特別養護老人ホームで陣頭指揮をとっています。広い庭に花を植え、年に一度、施設での盛大な祭りなども企画して入所者の老人たちを楽しませています。祭りの一週間前から町中にポスターをはりまくって準備しているので、息子の私はちょっぴり恥ずかしい思いもしています。

特別養護老人ホームというのは簡単に言えば、[ 一人で身の回りのことができない介護の必要な方のための施設 ]です 。そこでかかる費用も、介護の程度にはよるらしいのですが、ほぼ年金の範囲内です。ですから、こういった施設があれ老後の不安も少し解消しますよね。そう考えると、贅沢さえしないで年金さえ払ってきちんと働いていれば老後は安心なはずです。rojinhome.jpg

そんなことを知ると、私も社会貢献しなければいけないなあ、なんて考えてしまいます。数年前の話ですが、母がタイミングよく

「老人ホームの洗濯機が壊れてしまって大変なのよ。また修理するくらいなら買い替えたいのよねー。150万円くらいする全自動の洗濯機があるんだけど、それがあったらみんな楽になるんだけどなあ」などと言ったので、つい

「じゃあオレが寄付するよ」と言ってしまいました。いざ、幸寿苑でその洗濯機を見て、私も社会貢献できるくらいには成長したんだなあ、などと感慨深く感激に浸りましたが、よく考えたらうちの洗濯機だって10年前のものなのでときどき止まってしまい、買い替えなければいけないものでした。ボロボロの洗濯機で洗濯しながら、社会貢献の大変さを知りました。

そば屋さんで注文をするとき、東京と大阪では「たぬき」と「きつね」の意味が違うので、大変ややこしいのです。。

東京の場合「たぬき」は天かすのことです。ですからたぬきそばにたぬきうどんがあります。また「きつね」はあげのことです。ですから 当然きつねそばときつねうどんがあります。

大阪の場合はこんなに簡単なものではありません。「たぬき」はあげいりそば 「きつね」はあげいりうどんなので、とてもややこしいのです。また、天かすのことは「ハイカラ」といって、ハイカラそばにハイカラうどんは存在します。

この違いの覚え方はマルちゃんのCMです。「あーかいきつねにみどりのたぬき♪」赤いきつねはあげいりうどんで、緑のたぬきは天ぷらそばですよね。 会社も関東の人と関西の人がこんがらないように名前を作ったのだと思います。

私が通ってた慈恵医大関係の人達ならば誰でも知っている「地下そば」(地下フロアにあるそば屋さんだからこういった愛称なのです) には忍者そばというものがあります。これは「きつね」と「たぬき」の両方をトッピングしたい、と考えたある先生が名づけたという逸話があるのですが、たぬきときつねの化かしあいという意味で忍者なのです。

大学病院に勤務すると必ず出張があり、地方の病院を転々とします。そしてその病院には必ず出前のそばやさんが出入りしているものです。誰が広めたのかは不明ですが、そのそばやさんの裏メニューには「忍者そば」「忍者うどん」というメニューが必ず追加されているのです。

私の究極のメニューのひとつ。地下そばの冷やし忍者そばとカツ丼。食べたーい!!!!

先日、ナガシマスパーランドに行ってきました。遊園地に行くのは15年前のディズニーランド以来です。絶叫マシンがおいてある遊園地にいたっては22年前に行った後楽園遊園地以来です。

私は遊園地でほのぼのとした時間を費やすのは楽しいと感じるのですが、絶叫マシンは「楽しい」と感じたことはありません。どちらかというと「拷問」です。どうしてあんな高いところから落とされなければいけないのか理解できません。さらに料金を支払うなんてありえないことです。

しかし友人がどうしても乗りたがってますし、いちいち「オレはきらいなんだ」ということを説明するのも面倒ですから、雰囲気的にも「ひとつぐらいつきあってやるか」と思い、乗ることにしました。

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心の中では「いやだなあ」と思いながら、絶叫マシンに乗ろうとすると、入り口に

①130cm以下の方乗車をお断りします。 「ふーん。子供だと振り落とされて危ないんだろうなあ」

②54才以上の方の乗車をお断りします。  プツン!!頭の血管が切れました。「なにー!!オレは49歳でクリアーしてるけど、あと5年経ったら、危険だというのか!ナメんなよ。乗ってやろうじゃねえか。」

若干、興奮しながら階段を昇り、絶叫マシンに乗り込みました。さあスタートです。カタンカタンとマシンは高いほうへ向かいます。先ほどまで怒ってましたが、意気消沈気味です。頂上につきました。 ガアー!!!落ちていきます!一回転します!遠心力がかかります!「ヒエエエエエー」。・・・・・・・・・・・・・・・・ガタンッ!終点です。思い切り脱力感とともに、足の力は抜け、目が回りました。やはり乗るんじゃなかった。先ほどまで怒っていたナガシマスパーランドさんにごめんなさい、と②48才以上の方の乗車を固く禁じます とあらたに提案したいくらいでした。

しかしフリーパス券を買ってしまったので、これだけでは大損です。次は大好きな観覧車に乗ることにしました。今まで見たこともない高さの観覧車ですから、さぞかし景色がいいのだろうと考え、乗り込んで一息つきました。少しずつ上っていきます。天気がよかったので海の景色が最高です。「ああ、来て良かった。」と思いきや、これは高すぎです!!三重県から大阪府が見える勢いです。足はすくみ、手すりをぐっと握りました。手からは冷や汗をかいてます。心の中で「早く下がれー」と祈りつつ、観覧車が頂点に到着したとき、カタンと音がしたかと思ったら、動かなくなってしまいました。「ヤバイ!故障だ!」死をも覚悟しました。その時です。「ただいま、体の御不自由な方の乗車をしております。故障ではありませんので、そのままお待ちください。」とアナウンスがありました。安心しました。やっとの思いで下に到着しましたが、「もう絶対に乗ってやらんぞ!」と誓いました。

ホワイトサイクロンには感心しました。全て木でできている手作りのジェットコースターです。これは後世に伝えるべき芸術品です。さすがに怖くて乗ることはできませんでしたが、見るだけでも価値のあるものです。是非行って見てください。

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このふたつの乗り物で全身脱力感です。しかしフリーパスを買ってしまったので、あとはおばけ屋敷や、ゴーカートに乗って、遊園地を後にしました。その後、ナガシマスパーランドの温泉でゆったりと湯船につかって帰りました。あーつかれた。

私たちが医師になりたての頃の話です。

医師免許に合格すると、2年間は研修医という立場になって外科系の各科をローテートします。希望科は外科、整形外科、形成外科、産婦人科でした。外科の先輩たちはとても豪快な楽しい先生ばかりで圧倒されます。その中に尊敬できる先生を見つけたりして、ほぼ心の中で「やはり外科かなあ」と決めてました。しかし、将来のことを考えると、開業するには外科では不可能だ、ということに気づいてました。そんなとき研修期間が残り一週間というところで、教授の手術につく機会があったのです。手術中に

「君は研修医だね。」

「はい!」

「外科はやりがいもあるし、楽しいだろう。」

「はい!」

1年先輩でも神様です。教授に対して、普通に話しなどできませんでした。

その晩、忘年会がありました。外科の忘年会は大騒ぎです。皆酔っ払い 楽しく過ごしていたところ、教授が時間遅れで入ってきました。部屋の空気は一瞬にして変化しました。教授は席を移動しながら、いろいろな先生方と談笑して回っています。私たちのグループにもいらっしゃいました。

「おお、君は志賀くんだね」

「はい。(うわあ!名前を覚えてくれている。感激!ドキドキ。)」

「今日の手術では、よく手が動いていたねえ(要するに手術中に気がきくということです)。外科医のセンスを持っているようだね!」

「本当ですか!ありがとうございます。」

「君は外科に入局するのかね。」

「はい。そのつもりです。よろしくおねがいします。」

ということで、この言葉で私の歴史が変わりました。翌日、先輩にそのことを自慢気に話すと、

「志賀、お前の夢を壊すわけではないけど、みんなそう言われてるんだぞ。それに昨晩の教授は呑みすぎて、泥酔してたから、帰りにオレのコートを着て帰ったんだぞ。お前に言ったことなんて、たぶん記憶にないよ。まあ自分の将来は自分で決めろよ。」

「はあ。(がっかり)」

結局、外科に入局して10年間頑張りましたが、現在に至るのでございます。

外来をしていると、「眠れないので睡眠薬が欲しいのですが。」という訴えの患者さんによく出会います。

私も長いこと不眠症でいるので気持ちはよくわかります。体が疲れていても、眠ろうとすると眠れないのです。ですから翌日が手術があるのに眠れない夜は 睡眠薬を少しだけ内服して、できるだけ体を休めるようにしてます。しかし、翌日が休みや遅い出勤のときなどは、本を読んだりDVDを観たりするので、かなり遅くまで起きています。むしろ寝るのが惜しいといった感じで過ごしております。私の生活は休みが少ないので、暇さえあれば寝ようとしますし、休みがあれば 思いきり遊ぶ不規則な生活なのです。

不眠症の患者さんにはいろいろな質問をします。「お仕事をなさっているのですか?」。「いいえ。専業主婦です。」「朝早く起きる理由があるのですか。」「いいえ。主人も定年でゆっくりしてますし、子供も結婚してしまいましたし、早く起きる必要はないのです。」「私もそうなのですが、寝ようとすると寝れないもので、起きようとしていると自然に眠くなるものですよ。お薬は出しておきますが、無理に寝ようとしなくても良いのではないですか?」「そうですね。やってみます。」

私が外科医だった時代、インフォームドコンセントされた癌の末期の方でも睡眠薬を内服していていました。私の心の中では「死に対する不安や恐怖感はあると思うけど、もう限られた命なのだから、生前にやらなきゃいけないことはないのかなあ。」と不思議に感じておりました。私は今後、30年は生きようと考えてます。やりたいことがありすぎて時間が足りません。私もいずれ死にますが、死を宣告されたら痛みのコントロールだけして、毎晩徹夜してでも人生の整理をしたいと考えてます。ですから突然死だけは困るのです。皆さんも人生は長くないのだから、眠れないのでしたら、眠くなるまで起きていたらどうでしょうか。

「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」は映画化されたり、配役を変えテレビで何度も放送されるほど有名で、良い話とされてます。しかし現代で忠臣蔵が起きたら大変なことです。殺人事件で逮捕されてしまいます。

仇(あだ)討ちは親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みをはらすことで、江戸時代、武士階級で慣習として公認されていました。人を殺しても番所(役所)に届け「仇討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、勇気ある行動と賞賛されていました。

あだ討ち禁止の最初の法律が1873(明治6年)年2月に発令された復讐禁止令です。これによって犯罪は個人に代わって国や地域社会という司法が罰するという国家的公刑罰権が確率されたのです。

私は殺人事件をみると、とても悲しい気持ちになります。殺人事件には、被害者と加害者が必ず存在するからです。ですからそんな事件のニュースがあると、両方の立場になって考えます。

もし、悪意や無差別に自分の子供が殺されたら、犯人を自分が仇討ちしても死刑にしても自分の心は晴れないと思いますし、むなしさが残るだけです。病気で死ぬというのとは意味が違います。突然、愛する子供がいなくなってしまう悲しみなど、私の想像を超えたものなんだと思います。

もし、自分の子供が他人を殺してしまったら 子供の死刑を受け入れられるでしょうか。さまざまな状況にもよりますが、更正できるものならさせたい、と考えてしまうのでしょう。しかし、殺された相手の悲しみを考えたら そんなことでは済まないはずです。子供がしたことの重大さを認めさせ、司法に委ねるしかないのでしょう。たぶん子供の育て方を反省し、一生悔やんで生きていかなければならないのでしょう。

最近、死刑廃止論というものが言われております。確かに死刑が生み出すものは少ないとは思います。だからといって死刑を廃止する、というのは間違っていると思います。やはり命には命で償うというのは大前提として、これによる抑制効果を期待しなければ事件は減らないはずです。

命は神様に与えられたものです。ひとつの命を育てるには周囲の大変な苦労と努力を伴うものです。その過程の思い出や愛を一瞬にして失ったら、周囲の人達だって生きる望みを失うはずです。

人気取りのために死刑廃止論を唱えている政治家は、そんなことよりも犯罪の起きないような世の中を作ることを考えていただきたいものです。

これから裁判員制度が始まります。どんな事件がどのように裁かれるかを見守っていかなければいけませんね。 

私は大腸過敏症です。ですから、食事を取ると20分以内に便意を感じてしまいます。

消化器外科で外来をしていたときに、こういった患者さんによく出会いました。私を含めて大腸過敏症の方は 通勤途中のどこにトイレがあるかを把握しながら生活してますし、食事内容にも注意しています。ですから私が朝食をとる場合は、食後に20分以上の時間があるときだけです。そうしないと、通勤の途中でトイレに行かなければならないからです。

その日は朝食を摂らずに出勤しました。病院に着くと、一日の予定を検討しながらアイスコーヒーで一服します。その日は胃癌の手術でしたから、4時間くらいかかる予定でした。手術中に抜けるわけにはいきませんから、そんなときは朝食をしっかりと摂って、手術にのぞみます。トーストにサラダ、アイスコーヒーを飲んで、予定通り便意を感じたのでトイレに行きました。私は、職業柄、便を観察する癖があります。血液の混入や太さ、未消化の状態を確認するのです。その日は、前日に酒を飲まなかったので、色合いの良く香り豊かな便を大量に排出しました(飲酒の翌日は下痢しやすいのです)。観察後、健康具合に大満足して水を流そうとすると、

「あれ!水がでない!!!!!!さらにトイレットペーパーがない!!!」

そのとき脳裏に浮かんだのは、「先週は確か、このトイレは工事中だったぞ。けど、ドアは空いてたから工事は終わったのではなかったのか??」

トイレットペーパーもないのでオシリも拭いてません。ズボンをはくこともできず、半端な状態でおそるおそるトイレの入り口を見ると、

「ガーン!!!工事中だああああ!!!!」

私は悩みました。手術の時間は迫っています。だからといってこのままでは逃げられません。悩んだ結果、他のトイレに行って、オシリを拭き、きちんとズボンをはいて、トイレットペーパーを握り締め、工事中のトイレにもどってきました。そのトイレットペーパーを排出物の上に置いて隠し、便器の奥におしこみました。それと「ごめんなさい」のメモを残して出ていきました。

手術前に先輩が「志賀、顔色悪いけどどうかしたのか?」

さすが医者です。見抜かれました。「いや、昨晩飲みすぎたんですかねえ。いたって元気ですよ。」

手術は問題なく成功しました。手術後、恐る恐るトイレの入り口を見てみると、ドアに「使用厳禁」と大きな紙で張り紙がしてあり、太いガムテープでドアは閉鎖されてました。まるでトイレ内で殺人事件でもあったような雰囲気でした。

心の中で「犯人はわたしです。ごめんなさい(合掌)。」と思いながらその前を通りすぎました。

2005年にその女の子はリッツ大阪院に来院しました。年齢は22歳です。スタイルは良く顔は小さいのですが、少しだけ頬骨が出ており、エラも出ているのでゴツゴツした印象でした。目は一重のスッキリした顔立ちです。

「私、綺麗になってモデルになりたいんです。」

「うーん。素質はあるよねー。どの部分を直したいというのはありますか?」

「全部!浜崎あゆみみたいになりたいんです。」

「そうかあ。ちょっと雰囲気は違うけど、そうなるとまずは目かなあ。」

数日後に瞳拡大(軽度の眼瞼下垂手術)と二重の手術をしました。目はかなりパッチリとして、全体的に明るい印象になりました。瞳は浜崎あゆみさんのように輝いてます。

「今度は輪郭を直したいんです。」

それから半年に一度くらい、手術を受けに来院します。その都度、女の子は近況報告をしてくれます。ある日

「夜の仕事をはじめてみたんやけど、指名が一番になってん。先生のおかげでモテモテやで(笑顔)。」

「へえ、すごいな。元々、素質があったんじゃない?」

次に来たときは

「先生!雑誌デビューしたで。見てなあ。」

本屋さんで周囲の目を気にしながら、そのファッション誌を立ち読みしました(ファッション誌を50歳近い男が見ていたら変態です)。それは最近の女の子が最も憧れている雑誌で、その読者モデルとして巻頭に写っておりました。

「え、うそ!かわいい!」

化粧も髪型もプロが触っっているので別人のように輝いています。

それからその女の子が来院する度に、少し緊張するようになりました。けど、その女の子の当初の予定だった浜崎あゆみさんとは違い、私の好きな小林真央さんに似てきた感じを受けるのは、私の好みのタイプのように手術してしまったということなのでしょうか。

今後の活躍を楽しみにしております。

今年の夏、兄が享年52才で他界しました。

私の尊敬する医師であり、生まれたときからの目標でしたので、この2か月間、私の心は糸のない凧のように彷徨っておりました。

しかし、そんな深い悲しみの中、とても嬉しかったことがありました。兄の通夜と告別式に1500人もの人に来ていただき、盛大に行なわれたことでした。たったひとつの魂を1500もの人に見送っていただいたのです。そんな兄は幸せ者でした。リッツ美容外科の各院からも花や電報が届き、東京院の広比院長夫婦、横浜院の阿部院長夫婦には、わざわざ東京から来ていただきました。大勢の前でしたし、精神的に衰弱しているときでしたので、そんなときに親しい人達に会い、思わず涙が溢れてしまいました。

しかし兄の四十九日も過ぎたので、いつまでもフラフラと彷徨っているわけにはいきません。私は一大決心をしました。兄が得意とする、変形性膝関節症やリウマチによる膝関節症に対する人工膝関節の手術をマスターすることです。

兄の診察していた大勢の患者さんが、いらっしゃいます。これから手術が予定されていた患者さんたちのために、私は早速行動に移しました。某大学病院の整形外科で手術を教えてもらうことにしたのです。スタートは研修医と同じです。朝早くからのカンファレンスにはじまり、手術や外来での勉強です。はじめてみると、医師になりたてのころのフレッシュな気持ちが蘇ってきました。新しい病気のことは何を聞いても新鮮ですし、興味深々です。手術の部位こそ異なりますが、骨を切ったり削ったりするのは整形外科も美容外科でも同じです。今後、美容外科での自分の技術にも幅が広がりそうな予感がします。

ですから、最近は生きていく目標を定め、元気になりました。これからまた、ブログにも取組んでいこうと思います。お休みしている間、メールで励ましていただいた皆様、ありがとうございました。

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私の小さい頃はいつも兄の後をついていくような甘えん坊だったらしいです。幼稚園の年少のときでも2つ年上の兄の教室に入っていって一緒に過ごしてました。これを先生達もあきらめて黙認してくれていたそうです。

私が小中学生のころ、周囲の推薦もあったのですが、生徒会の役員に立候補することが多くありました。中学校に入学したての秋にも生徒会の会計監査役に立候補しました。私の中学校の出身者で生徒会長をした人には中村敦夫(木枯らし門次郎)さんもおり、由緒ある生徒会でした。対立候補は2年生と3年生数名です。半年前に入学した私など勝てるはずもありません。今でこそブログなど書いてますが、文章を書くのが苦手でしたから困りました。兄に

私「明日の立会演説会の演説文考えてよー」

兄はニヤリと笑って

「いいよ。けど文章は当日まであけるなよ。それと書いてあることをそのまま読めよ。」

私「わかった。ありがとう。」

演説会の当日、体育館の壇上に登り、順番をまちます。その当時 生徒会副会長だった兄は私のほうをチラチラと見ております。順番が近づいてきました。いよいよと思い演説文を開きました。「えっ!これを読むの!うそ!」私は驚きました。兄もなにげにニヤニヤと笑っているようです。仕方ありません。約束通り読みました。

「私は しがひろおの弟 しがよしあきです!・・・・」

全校生徒1200人+先生達の大爆笑と拍手喝采の渦に巻き込まれました。私の顔も真っ赤です。黙々とつづきを読み終えて壇上から降りました。「くそぉ。兄貴に騙された!」

選挙の開票は当日でした。学校から帰った兄に文句を言おうとしたら

兄「おめでとう!!」

生徒会会計監査 当選 志賀由章(1年)787票 小沼絵里(仮名 3年)289票・・・・でした。

私の兄はどこへいっても人気者です。イケメンな訳でもなくスポーツができる訳でもありません。小さいころから あんなふうになりたいなあ、と思いながらも真似できない人間なのです。

兄が中学を卒業してからは 私の人気だけで当選することもないので、立候補することはありませんでした。

開業してからも人気者です。患者さんが朝の6時から弁当を持ってクリニックの前に並んでます。私が医師になって一番尊敬できた医師でした。

先日、福島の実家に帰りました。兄のクリニックを手伝っていたら、初老の上品そうなご婦人が注射を受けながら

「よしあきちゃん、ひさしぶりねえ」

「え!どちらさまでしたか。すいません。最近、物忘れがひどくはっきりとした記憶がないのです。でも会った事があることは記憶にあります。」

「無理もないわ。40年ぶりですもの。変わってないわねえ。私、幼稚園のときに同級だったタエコ(仮名)の母よ。」

「ええー!!!そうだ、そうです。思い出しました。お久しぶりです。」

ビックリしました。私が5歳のときの 初恋の女の子のおかあさんです。今でも幼稚園時代のことを思い出すときは 必ずタエコちゃんのことを思い出してました。タエコちゃんは 4歳のときから目鼻立ちがはっきりしていてお母さんのように上品でした。さらに手足は長く、その当時の子供の中では際立ってましたから、当然みんなの憧れの的です。小学校は地区の違いで別の学校になってしまいましたが タエコちゃんの学校の友人に彼女の様子は聞いておりました。スポーツが得意で中学のときはソフトボールをしていたこと。高校は地元に進学せず東京に行ってしまったことなど、彼女のことはたくさん知ってました。さすがに私も大学に進学してからは思い出すことも少なくなりましたが、その当時タエコちゃんの友人から手を回して手にいれた一枚の写真だけは 今でも家のどこかにあるはずです。

母「今日も私を迎えに来てくれるのよ」

私「え!そうなんですか!会いたいなあ。」

母「じゃあ。後で寄るわね」

言ってから後悔しました。医師になってからは誰とでも話せるようになりましたが、私は過度の緊張症です。学会の発表が嫌いなのも、人前に出ると緊張で手足は震え、言葉も震えてしまうからです。再開の時間が来るのを緊張して待ちました。

母「よしあき先生いらっしゃる?」

私「はーい(ドキドキ)。」

タエコ「ひさしぶりー!よしあきちゃん!。こんにちわ。」

私「あ!タエコさんですか。お久しぶりです。相変わらずお綺麗ですねー。外人さんみたい(オレは何を言ってるんだ。バカバカ)。私なんてこんなになってしまいました(全然うけないじゃないかーいわなきゃよかった。はぁ)。」

昔話で盛り上がりました。やっと緊張もとれたころに

タエコ「私の幼稚園の思い出なんてよしあきちゃんのことしかなかったわよ。」

私「えー!そうだったんですか。両思いだったんですね(いい年こいて何を言ってるんだ!バカバカ)。私もですよ。」

私は49歳なので彼女も同じなはずです。現在、彼女はダンスの先生をしているらしく美しいスタイルと相変わらずの綺麗な笑顔でした。不思議なことに今まで彼女を思い出すときは、昔に手に入れたあの一枚の写真の笑顔でしたが、再会してからは頭の中の記憶が現在のタエコさんに変わって前の記憶が消えてしまったのが不思議でした。

今から30年前、私はサーファーでした(笑)。

日曜日になると、朝早くから友人の車にボードを積んで湘南の辻堂海岸に向かいます。辻堂に着いたら 歩道橋に登ってどこの海岸に波があるかをチェックし 波のある海岸に向かいます。波がたってないときは海沿いのR134を走って波のあるポイントまで車で移動します。

台風が通り過ぎた翌日はきれいな高い波がたつのを知ってましたから、犬を連れて一人で湘南まで行きました。その日、歩道橋から波がたっていいたのは 茅ヶ崎ホテルの前でした。茅ヶ崎ホテルの駐車場に 犬を入れたまま車を止め 海へ向かいました。波は高かったのですが 風の影響できれいな波ではありません。ただ、ボードに乗っているだけでも幸せなので 波待ちをしながらボーっとしていました。

サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」を口ずさみながら波待ちです。「海岸で若い二人が恋をする物語♪・・・・・・エボシ岩が遠くに見える♪ 涙あふれ・・・」と後ろを振り向くと 「うわあ!!!!!」エボシ岩がすぐそこにあります!!やばい!潮の流れに流されたんだ!さすがにそのときは死を覚悟しました。前日、ウインドサーフィンをしていた大学生が一晩中漂流してニュースになっていたばかりでした。海岸からエボシ岩までは1.5kmくらいです。大体1.2kmくらいは流されていたようです。

両親のことや兄弟のことを思い出しました。車の中の犬も死んでしまう!!パニックの中、私は冷静になりました。「ようし!オレは生きるぞ!!」一生懸命パドリングしました。潮の流れに逆行してますから全然進みません。でかい声で気合いを入れ、約2時間はかかったでしょうか。やっと海岸にたどりついたのです。

今でも「チャコの海岸物語」を聞くと、その時のことを思い出して背筋がぞっとします。死まで覚悟した「オレの海岸物語」です。

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この写真の左側が私です。波は小さいけどきれいに乗れてるでしょ。26年前、千葉の海岸で撮りました。

フードマイレージとは、簡単に言えば「食べ物がどれぐらいの距離を運ばれてきたか」を示し、食べ物を運ぶにあたって二酸化炭素がどれだけ排出されたかを計算し、環境汚染にどれだけ影響するかを数字で表すものです。日本はフードマイレージが世界一高い国です。つまり食料を自給率が低く、他の国からの食料依存度が高いことを示しております。

先日、福島に帰ったときに野菜や果物をたくさん買いました。農家直営の野菜は大阪のスーパーの5分の1くらいの値段で売っています。先日帰郷したときもトマトを3箱(60個)で1000円、スイカを2個で2000円、桃を1箱(15個)2000円で買いました。トマトなんて1個17円くらいですから、ペットボトルの水よりも安い値段なのです。うちのスタッフに空港で買ったお菓子をおみやげにするよりも、新鮮な野菜にしたほうが喜ばれると思い、張りきって買いました。これをかついでチェックインしようとしたところ、係員の方が重量を測定してました。

「すいません。業者の方でしょうか。」

「(だれがやねん!オレが野菜屋のおっちゃんにみえるかよ!怒!)いえ。どうかしましたか。」

「手荷物以外のお荷物は15kgまで無料なのですが、お客さまの荷物は27kgありますから、1kgにつき400円の追加料金が必要になってしまいます。」

「えー!そうなんですか?知りませんでした。」

頭の中で計算しました。超過分12kg×400=4800円!野菜や果物の値段が5000円ですから、なんと倍の値段になってしまいます。作戦を練りました。

「手荷物で機内に持って入ればよいのですか?」

「はい、それなら結構です。ですが手荷物はお一人様10kgまでとなっております。」

「でしたら、この9kgの桃を手荷物にしてもよろしいですか?」

「結構ですよ(嘲笑)。そうなりますと超過分が3kgになりますから1200円になります。」

「はい」

私は9kgの桃を肩にかついで機内に乗り込みました。福島の桃の甘い香りが機内に漂っていたのは言うまでもありません。周囲のお客さんは私のことを果物屋さんのおっちゃんだと思ったかもしれません(恥)。心の中で「どちらにしてもフードマイレージには関係ないじゃないか」とブツブツつぶやいてました。

田舎道を車で走っていると 5~6件の集落を見かけます。家の周囲に田んぼや畑があると 「農家なんだな。」で解決しますが、田んぼや畑がないのに家があったりすると、「なぜこんな不便な場所に住むのだろう?病気になったら大変だよなあ。子供の通学はどうするのかなあ。」などと考え、次第に妄想の世界に入ってしまいます。

戦国時代 豊臣秀吉は天下を統一するために全国を駆け巡ってました。秀吉の命令に背いた大名とは戦(いくさ)になります。戦になるといろいろなことが起きます。戦の途中で戦死したり、怪我をしたりすることもあるでしょう。そうなったら戦から引き上げることもできませんし、中には逃げ出す方もいるはずです。怪我をしている武士が倒れていたら、親切な地元の農家の方が家にかくまってくれたりするかもしれません。

武士「ん?ここはどこじゃ?」

老女「お武家さまは 関が原の戦いで倒れておったのを 娘のサチが連れてきて看病したのじゃ。お武家さまは もう一週間も寝てましたぞ。」

武士「サチと申すか。すまんのう。いたた!」

サチ「お武家さま!まだ傷が治っておりませぬゆえ、まだお休みになっててください」

武士「ふう。ご主人はおらぬのか、挨拶したいのじゃが。」

老女「主人は先だっての戦で死んでしまいました。見てのとおり、今は私とサチが二人で田んぼや畑をして食いつないでいるありさまです。」

武士「そうか!大変じゃのう。わしが元気になったらお礼に畑仕事を手伝って進ぜよう。」

サチ「本当ですか!ありがとうございます。」

・・・・・・その後、武士はサチと恋仲になり、武士は刀をクワに持ち替え、助けてくれたサチとその土地で子供を4人もうけて仲良く暮らしたのかもしれません。もしかしたら、あの集落はサチの子供たちなのかもしれないなあ。なんて妄想している間に「院長、着きましたよ」「ハッ!あ・ありがとう」目的地に到着してました。

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私たちが小学校のころはソフトボールが盛んでした。私も小学校4年からは上級生に混じって毎日練習してました。そのころは町内対抗戦でしたから、私たちの町の公園でも毎日誰かがソフトボールをしてました。

4年生のころは補欠です。5年生になってからはレギュラーになりました(町内に4~6年生は20人くらいしかいませんから大したことではありません)。すばしっこく、スポーツが得意だった私はピッチャーに選ばれました。いよいよソフトボール大会の日 注目度は低く 初戦に勝てば上出来くらいのチームでした。それが同級生や先輩のいる優勝候補の強敵チームを次々と倒し 決勝戦まで進出してしまいました。 

決勝戦は4年生以上の生徒500人以上が見ている中での試合です。私は頭の中が真っ白です。マウンドからキャッチャーまでの距離も いつもよりはるかに遠くに見えてました。大好きだった女の子も見てます。そんな中で投げてますから なかなかストライクが入りません。さらにさっきまで仲良かった野球仲間が ねたみもあってか「チビピッチャー!!ヤーイ!!」などとヤジをとばしてきます(涙)。6年生が「変わろうか?」と言ってくれましたが、「大丈夫です。投げます。」と、投げ続けました。結果は0-1で負け、準優勝でした。けど、5年生で投げぬいた私は、翌日の朝礼で優秀選手賞の賞状を頂き 大きな満足と自信を得ることができました。この幼少時の栄光はその後の人生の自信につながっていったのです。

今でもときどき夢を見ます。王監督がドラフトでなぜか私を6位で指名するのです。さらに新聞記者もやってきて取材を受けます。王監督は「一緒にがんばろうよ!」と言ってくれます。けど、クリニックを開業しているので悩んでしまうのです。「どうしよう。プロになりたいけど、明日もオペがあるしなあ。どうしよう。」。そこで目が覚めます。(40年前の小さな栄光をどこまで引っ張るんだよって感じでしょ。笑)

前列向かって右端が私です。凛々しい子供でしょ。baseball.jpg

競馬をする人間は馬肉を食べてはいけません。ツキが落ちるからです。

ある時、熊本の友人の家に遊びに行きました。熊本といえば阿蘇山と馬肉が有名です。夜、友人と町に繰り出しました。どこの居酒屋にも馬刺しがあります。私はかたくなに拒み、馬刺しは一切食べませんでした。

翌日、レンタカーを借りて阿蘇山にドライブに行きました。頂上近くに広い牧場があって、百頭以上の馬が放牧されております。おとなしいので近づいてもまったく動じません。さらに馬の胴体横に店の名前が書いてあります。うーん。これは私が競馬場で見たレース馬とは違う生き物だ。馬というより豚さんや牛さんに近い、むしろ家畜だ!という結論に達しました。その晩、馬刺しを食べまくったのは言うまでもありません。おいしかったあ。

そのせいか、競馬をはじめた年の有馬記念の大勝負には勝ったものの、その後は当たらなくなりました。昨年も大赤字でした。

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小学校のころ、学校の帰り道の途中に秘密基地を作っておりました。そこには、仲間が漫画の本や釣り道具、虫取り網やおもちゃなどを持ち寄って隠しておくのです。中学にもなると制服を着るので行けなくなりますから、次の世代の子供たちに明け渡します。

私は今でも家の裏にテントを張って秘密基地にしております。ここは私の憩いの場所です。雨の日でも、仲間とバイクの修理やバーベキューをしたり、酒を飲んだりすることができます。日差しの強い夏はマメやアズキも涼んでいます。家庭菜園をするためのクワやスコップも置いたり、苗作りはここでしてます。

朝起きると、アイスコーヒーを持ってここに来て、苗の状況を確認しながら目を覚まします。。落ち着いたら庭の水撒きをして 出勤するのです。

2月の雪でテントの屋根が雪の重みに耐えかねて破れてしまいました。やはり9000円のテントは何年も張りっぱなしにはできないのですね。以前は青だったので、今回は黄色にしてより明るい雰囲気を作ってみました。 

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今年の大河ドラマ「篤姫」は近年稀に見る名作です。私は大河ドラマの中では「利家とまつ」以来の名作だと思います。宮崎あおいさんの熱演も素晴らしいうえに、父親役の長塚京三さん、母親役の樋口可南子さん、島津斉彬役の高橋英樹さんの名演技には感激します。

篤姫は鹿児島に生まれ、13代将軍 徳川家定と政略結婚させられます。しかし家定は数年で亡くなったので、未亡人として大奥に残りました。14代将軍 徳川家茂には天皇家から和宮が降嫁しました。和宮は有栖川親王と婚約していたのに公武合体(天皇家と武士を仲良くさせる)のために、婚約破棄させられ、家茂と政略結婚させられたのです。しかし家茂も数年で死去したため、和宮も未亡人となり大奥に残りました。その後15代将軍 徳川慶喜へと移り変わっていくのです。

大政奉還後は徳川政権を倒すために薩長(薩摩と長州)連合が天皇家を味方に引き入れ、官軍として江戸城を攻撃することになりました。

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天皇家が味方しているのが官軍(正義)、それに反抗するものを賊軍(悪)といいます。ですから、徳川家は和宮を嫁に出していることもあり官軍だったのですが、天皇家(それも婚約者だった有栖川親王です)が薩長側に味方することになったので、徳川家の立場は賊軍となってしまいました。篤姫や和宮は政治的に利用され、最後は実家に見捨てられたのです。未亡人となった篤姫、和宮は実家に帰ることもできたのでしょうが、徳川家の人間として無血開場(戦をせずに江戸城を明け渡すこと)へと奔走し、あわやというところで江戸城は攻撃されなかったのです。もし。彼女たちがいなかったら、西郷隆盛は江戸城に攻め込んだのかもしれません。

徳川幕府が崩壊した後も篤姫は生涯、鹿児島に帰ることも援助をうけることもなく、波乱の時代を生きぬいたのです。また数年しか結婚生活をしなかった和宮も 死後は家茂の墓の隣に入ったのです。

*幕末といえば坂本龍馬です。そんなに多くは出ないと思いますが、玉木宏さんが演じる予定です。また堀北真希さんの和宮も楽しみです。

医師免許の試験を取ると、2年間は研修医になります。学生のときは大学で勉強しても、手術や注射の経験はさせてもらえないので研修医になってはじめて注射したりするのです。

先輩医師に教わりながらはじめて静脈注射をしたときは感激したのを覚えております。それが上手にできるようになると、病棟の患者さんに朝の点滴に回ります。血管の出にくい人には大変苦労します。女性部屋は特に苦労しました。一度刺すのに失敗したりすると「下手な先生」のレッテルを貼られてしまいます。そうなると 点滴に回っても、「あの先生はイヤ」なんて看護師さんに告げ口されてしまうのです。

そういったことを乗り越えていくと、次は手術の助手です。大きな手術や小さな手術のお手伝いをさせてもらうのです。それが上手にできるようになると、やっと手術をさせてもらいます。手術部屋には今日の手術の予定表が貼ってあります。私のはじめての手術は「アテローム」でした。手術時間は30分の簡単な手術とはいえ、さまざまな科の教授に並んで、手術の予定表の術者のところに自分の名前をみつけたときジーンとしました。なんかチョッピリだけ社会に貢献している人間になれた気分でした。

そんなことを2年間やって生きていくのです。問題は給料が月に2万円ということです。確かに何もできないのですが、同時に入った若い看護師は初任給が17万円です。看護師さんと このことについて話すと、

「先生たちは将来たくさんもらえるでしょ」

そういう問題ではありません!研修医がはじまるころのある日、父が「これ持ってけ」。と封筒を渡してくれました。なんと100万円です。「おまえらは、当分安月給なんだから、これで食いつなげ」「うん、ありがとう(涙)」。私にはこのお金があったので、少しずつ使って食いつなぎました。、そして、お金がなくなってきた10月頃に、やっと当直のバイトを割り当てられたのです。

 一晩3万円の当直です。何か問題が起きたら大変なので 山ほどの本を抱えて病院に行ったものです。手帳にも 先輩から聞いたさまざまなマニュアルを書き込み、眠れない夜を過ごしたのを覚えてます。お金を頂くことの大切さを知り、当直代として頂いた3万円は大切に使いました。

私にとってバイクは人生の中で切り離せないものです。

風をきって走っている気持ち良さはフェラーリやポルシェにも味わえない感覚だと思います。しかしバイクはスピードを出したら大変に危険な乗り物ですから、私は原付程度のスピードでしか走りませんが、それで充分なのです。

バイク好きにはいろいろな楽しみ方があります。スピードやスリルが好きな方。ファッションの一部として乗る方。スポーツとして乗る方。おもちゃのように改造していじくりまわす方。さまざまです。

私にとってヨンフォアは20歳のときに生まれてはじめて買った乗り物ですし、さまざまな思い出がつまっているので、これに乗っているときの自分は1970年代にタイムスリップします。人生の疲れや悲しみなんて一気に吹き飛ばしてくれます。

以前、チェッカーズの高杢さんがガンに侵されたことがわかったとき「自分が癌であることを知ったとき、好きなバイクに乗って逃げ出したかった」と記者会見で語ってましたが、とても気持ちが理解できました。術後元気になり心から祝福しております。

こんなに夢中にさせる乗り物なのですから、子供たちが乗りたがるのはあたりまえです。私たちも同じバイクのオーナーが集まってツーリングなどしますし、その時の爽快感は最高です。ただ暴走族のように、他の走行を妨害したりしながら乗るのは間違ってますよね。子供にバイクの良さを教えてよいのか悩む今日このごろです。

この写真のヨンフォアは ほとんど原型をとどめてません。改造に改造を重ね、こんな形になりました。1980年当時よりも光ってます。

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今年はじまったドラマのの中で「ROOKIES」が熱いです。

まず、登場人物の名前がメチャクチャなんです。安仁屋に新庄、関川、御子柴、桧山、岡田、江夏といった阪神ファンならおなじみの選手の名前が使われています。主役は監督役の川藤こと佐藤隆太さん。いままでずっと脇役でいい味を出しているな、と思って観ていたら とうとう主役に抜擢されました。もうひとつメチャクチャなのは生徒役の年齢です。先生役の佐藤隆太さんが28才なのに、生徒役の高岡蒼甫さんが26才。上地裕輔さんは先生より年上の29才なんです。真面目なドラマだったらありえないキャスティングです。

私の好きな映画のひとつに「パッチギ」がありますが、映画で高岡蒼甫さん、桐谷健太さん、尾上寛之さんが不良役で名演技をしてたので、それとダブってさらにおもしろいのです。

撮影現場が二子玉川というのも最高です。私が東京に住んでいた頃には、多摩川沿いをバイクで走り回ってたので、青春時代がダブるのです。

生徒役で出ている市原隼人さんは、とてもかっこいいですね。ドラマの中では怖い顔をみせてますが、笑顔になると ものすごいやさしそうな顔に変身します。どんな目の構造なのでしょう?とても魅力的です。

さらに良いのがBGMで流れているGReeeeNの「キセキ」です。このジャンルのCDは滅多に買わないのですが、買ってしまいました。GReeeeNのメンバーを見たことがないためなのか、市原隼人くんが歌っているように聞こえてしまうのは私だけでしょうか。

このメチャクチャな設定のドラマなのに、最後の10分は、毎回 感動して泣いてしまうのがくやしいのです。カウンセリングの合間などに録画を見てると、やはり感動して涙目になってしまいます。私が涙目でカウンセリングに来たら、ROOKIESを見てたと思ってご容赦ください。けど、これを見た後は心が優しくなってますから カウンセリングは より安心です。

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昨年の秋頃にホームセンターを散策していたところ、チューリップの球根が安売りしてました。私は最近、庭いじりが趣味なのでチューリップやヒヤシンスなど球根を50個ほど購入て、庭に植えてみました。

昨年中に芽を出すのかと観察しておりましたが、一向に芽が出る気配がなく、「腐ってしまったか」とがっかりしておりました。すると、2月ころからヒヤシンスが芽を出しはじめ、ついにチューリップの芽が発見されました。50本のチューリップはまもなく満開になりましたが、花の命は短いもので、あっという間に花びらは落ちてしまいました。

今度はグラジオラスです。チューリップのように1-2週間で散ってしまわぬように球根を一週間に20個くらいずつ植え続けています。ただいま200個近くは植え終わり、ニョキニョキと芽が出始めてます。やっと今日、5月に植えたグラジオラスが咲きました。このまま咲き続ければ、秋口まで楽しめそうです。

植物を育てているといろいろ考えます。種を植えると 普通は芽が出て育ちます。しかし、その中には順調に育つものもあれば、途中で枯れてしまうものもあります。それには肥料をあげたり、害虫をとってあげることが影響しています。それでも順調に育って大輪を咲かすもの、小さな花しかさかせないもの さまざまです。そして花を咲かせた後は種の保存のために種を作って枯れていくのです。つい人間に例えて考えてしまいますが、私も枯れる前に 自分に肥料を与え(美容手術をして) 枯れてないように見せようと計画しております。

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大学病院で働いていると、若い頃は1年から2年単位であちこちの病院に修行に出されます。ですから、東京に彼女がいても1年でまた遠くに行かされて会えなくなるので寂しい思いをするのです。

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千葉県の柏病院に赴任したときは寂しさのあまり手乗りのボタンインコを飼いました。医局の中に鳥かごを置いて、当直のときも一緒に遊んだりしておりました。医局の先生たちが帰ったのをみはからって、医局に放して運動させたりもしてました。(他の先生の本の上に糞などもおとしていたようです。笑。)名前はピーちゃんです。とてもなついており、私の頭の上に乗ったり、肩の上に乗って耳たぶを噛んだり、寝るときも枕元で休んだりしていたものです。

ある寝苦しい夜のあけた朝、起きてみると、いつも起こしてくれるピーちゃんがいません。「ピーちゃん!ピーちゃん!」部屋中を探しましたがおりません。変だなあ、と思って枕元をみたらピーちゃんが硬くなって横たわっておりました。すぐに心臓マッサージと人工呼吸を施しましたが、すでに天国にいっておりました。死因は圧死です。私の寝相が悪いために、寝返りをうったときにつぶしてしまったようです(涙)。

あまりのショックでピーちゃんを埋葬するのも2か月くらいかかってしまいましたが、東京にもどったときに家の近くの公園の隅っこにこっそりと埋葬しました。

今でもペットショップに行くと、ボタンインコを探してます。あんなになついてくれるボタンインコはあれ以来出会うことは無く、「ピーちゃん」と指をさしだすと、かみつかれてしまいます。

吉野家の牛丼をはじめて食べたのは、大学受験で新橋のホテルに泊まっていたときでした。母が夜食で買ってきてくれたのです。とてもおいしくて感激した記憶があります。最近でも昼食として週に一度くらいは食べてます。

つまらない話ですが、カレーやかつ丼、牛丼を食べるときには、いろいろ考えてしまいます。ごはん一口におかずがついている食べ方をしたいので、ごはんとおかずの量を真剣に観察します。調子よくおかずばかり食べてしまうと、最後にごはんだけが残ってしまうからです。牛丼を食べるときはオーダーのときから悩みます。

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牛丼並380円(ご飯1人前・牛肉1人前)

牛皿並280円(牛肉1人前)

牛丼特盛630円(ご飯1.5人前・牛肉2人前)

牛丼並と牛皿並で頼むと、一口分のごはんに必ず牛肉がついてくるので、私にはベストなのです。しかし、これで頼むと、660円なので特盛の630円にしたほうが、ごはんが多くついて、さらに30円の得なのです。しかし、特盛ではダイエット中の私に1.5人前のごはんは多すぎますし、一口分のご飯に牛肉一枚のペースでは、ごはんが余ってしまいます。食べ物を残すのが嫌いな私は、最後は取り放題のベニショウガだらけにしてして食べなければ気がすみません。

最近は良い食べ方を考えました。食欲旺盛な若い男性と食べにいくのです。それで特盛を2人前頼んで、自分のご飯をあげてしまうのです。そうすれば、若い子は特盛をおごってもらってハッピー、ごはんのおまけまでついてさらにハッピー。私もベストな食べ方で食べれてハッピー。吉野家も売上あがってハッピー。三者両得ですよね。

こんなこと考えるオレって小さな人間でしょうか。がっくり(笑)

去年の春、兵庫県尼崎市から大阪府豊中市に引越ししました。独り者といっても、引越し屋さんに荷物の量は四人家族分といわれました。確かに、100kg近い梅干しにレコード400枚、使えなくなったオーディオ類多数、数百冊の本、集めた食器300枚、20年使っている本棚、ベッド、高校一年に買ってもらった自転車、バイクの改造用パーツがダンボール10個分など使えないものまで持っているので引越し屋さんも大変です。引越しは二日にかけて行なうとのことでした。

引越し当日、10トンと4トントラックで引越し屋さんがいらっしゃいました。引越しがはじまりました。荷物が次々とトラックの中に吸い込まれていきます。私はそれを見届けて仕事に行きました。当日は予定通りです。翌日も荷物はトラックの中にどんどん吸い込まれていきます。引越しが終わったころに尼崎の家に忘れ物がないように見にきました。家の中は寂しげです。リッツを開業して以来、住んでいた場所にいろいろな思いをはせていました。家に向かって「7年間ありがとう。仕事は順調、私生活も順調、マメまでお世話になりました。」あれ?マメは?マメがいない!

即、警察に電話しました。早く探さないと保健所で処分されてしまいます。

私「もしもし!犬がいなくなったんですが、そちらにマメは届いてませんか?いや豆柴犬なんですが。」

警察「なんか特徴はありませんか?」

私「今日はピーターパンの服を着てます。」

警察「ここにいますよ!!」

私「本当ですか?今からすぐに行きます。」

 なんで警察にいるのかなんて考えてませんでした。考えてみたら連絡すべきは保健所だったかもしれません。よくよく聞くと、タクシーの運転手さんがドアをあけて食事をとっていたところ、後方座席に影が。あれ?思って後ろを振り向くとマメが座っていたらしいのです。確かにマメを連れてあちこちに遠出してたので、車のドアをあけると、すぐにのりこむ癖があるのです。でも本当にホッとしました。

翌日、運転手さんにお礼の電話をして、お礼の品とマメが乗ったタクシー代を送らせていただきました。

小学校の頃、夏になると虫取り網をもってあちこちの山を走り回ってました。 目的はカブトムシやクワガタです。これが取れないときは仕方なくセミをとってました。翌日になるとセミは全滅してしまうのですが、今考えるとかわいそうなことをしてしまいました。ご存知のように、セミは6-7年間は土の中で生活してます。命の燃え尽きる最後の一週間だけ地上に出てきて、結婚相手を探すのです。ですから、あの鳴き声を訳すと、「おーい、6年間も真っ暗な土の中で鍛えたオレを見てくれよー。いけてるだろー。誰か結婚しようよー!結婚しようよー。残り一週間を楽しもうよー。」といった悲痛な叫びなんです。そんなセミを、目的もなく網で取ってしまったら「なんだよー。やめてくれよー。オレには時間がないんだからー。放せよー。」と叱られてしまいそうです。

セミは毎年、梅雨明けの頃から鳴きだします。東北・関東はアブラゼミやミンミンゼミが圧倒的に多いので、「ジージー・ミーンミーン」の大合唱です。しかし、関西ではアブラゼミやミンミンゼミは少なく、ほとんどが「シンシンシンシン」の鳴き声、これはクマゼミいう名のセミなのです。木の上を観察すると、アブラゼミも混じってますが、圧倒的にクマゼミが占領してます。

セミの鳴き声を聞くと「夏」を感じますよね。しかし、驚いたことに夏の風物詩であるセミはハワイにはいないのです。ですからハワイの昼は静かなんですよ。

 
 
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私は毎年夏になると、ハットリくんの弟ハットリシンゾウくんを思い出します。シンゾウくんは「シンシンシンシン」と言いながら走るので、クマゼミと頭の中で連想してしまい、「やーまをこえ、たにをこえ、ハットリくんがやってきた♪・・」と知らぬ間に口ずさんでいるのです。

昨年は7月15日にセミの鳴き声を確認しました。今年もそろそろです。セミたちの命がけの恋を暖かく見守ってあげましょう。

 

私が大学に入学したときには母が入学式用に買ってくれたスーツを一揃いしかもってませんでした。それ以外はワイシャツやトレーナーにTシャツ、スラックスにジャージの上下くらいのものでした。福島から出てきた若者でしたから東京では田舎者です。ファッションなんて知りませんし、興味もありませんでした。

大学に入学してからは硬式テニス部に入りました。その時に出会った同級生、吉田君には衝撃を受けました。[かっこいい!!!]。彼は慶応高校出身です。身長も高く、顔はその当時に売れていた田中健をさらにさわやかにした感じです。その上、性格も素晴らしく誰もが認めるリーダー的な存在です。テニスの腕前はプロになるか医者になるか迷ったうえ、親の希望で医学部に来たくらいのものですから、いきなりクラブ一の実力です。先輩の誰もが下級生の彼に一目おきます。私は神様を恨みました。天は吉田君にニ物どころか五物も与えてしまったか・・・・・・オレにももう少し与えてよ・・・・・・・。

私は憧れのバイクをやっと手に入れ走り回っていたくらいの時代に、すでに彼は車に乗っていました。さらに私は彼女もできず学校とテニスしかしていなかった時期でしたから、恰好など気にせずにジャージで学校に行ってました。ある日、吉田君が私を呼び「おい、志賀、その恰好はなんだ。オレが服を選んでやるから、明日10万円持って学校に来い」と笑顔で言うのです。

翌日、10万円を握りしめ、渋谷のデパートに連れていってもらいました。西武デパートの中であれこれと服をえらんで貰い、笑顔で「明日からこの服以外は着てくるなよ。」「うん。わかった。」

それからいろいろな遊びも教えてもらいました。六本木のおしゃれなディスコ(今でいうクラブですね)での遊び方や酒の飲み方も教えてもらいました。全てが新鮮に見えていた時代でした。

ある日「志賀に彼女を紹介するよ」「え!ホント!!!う・うれしい!!!」

今から29年前に東京で大雨が降り、電車が全て止まったことがありました。吉田君は自分の彼女を車で送った帰りに、駅内で、四人の女子大生に帰る手立てがないからといって頼みこまれたので、車で送ってあげたらしいのです。「その中に志賀の好きそうなタイプの女の子がいるから会ってみろよ。」それがその当時の彼女になりました。

その後、ビックリしたことに彼はスーパーリッチでスタイル抜群かつ美人な帰国子女(これまた完璧)と大学二年のときに結婚したのです。私の素直な心の中です。「こんなにかっこよくて欠点のない男性が世の中に存在していたら、オレなんかの出る幕がないから、よかった。敵がひとり減った。神様ありがとう。」でした(笑)。

外科系の医師の仕事はスーツにネクタイといった服装ではネクタイが傷口に触れたりして不潔になるので、スーツ姿で仕事をすることはあまりありません。手術のある日などは術着の上に白衣を着たまま一日中活動します。ですからスーツを必要とするのは冠婚葬祭と学会くらいのものなのです。

しかし、一着しか持ってないと雑誌の取材で撮影するときなどに、いつも同じ服装になるので困ってしまいます。うちのスタッフも、「院長、いつも同じ恰好では恥ずかしいから、ブランドのスーツを何着か持っててください」の要望がありました。仕方なく学会に行く前に阪急デパートにスーツを買いに行きました。私にとってはスーツに一着20万円など信じられない金額でしたが、ドキドキしながらアルマーニのスーツを買ったのです。

ある時、他大学の形成外科の教授が、クリニックに遊びにいらっしゃいました。その夜は新地で食事を共にして手術のことなどについて話をして盛り上がりました(当然アルマーニのスーツです)。その晩は私もフラフラになるほど飲みすぎましたので、自宅までタクシーで帰りました。千鳥足で家の門を空けて入るときに「ビリッ」と音がしました。「あっ!!!」ズボンに20cmの穴が・・・・・・・。その晩は悲しすぎて枕元を涙で濡らしてしまいました(泣)。

翌日、破れたズボンを持ってアルマーニに行き、「同じズボンが欲しいのですが。」すると「この生地で作ったものはお客さまのものだけなので、同じ生地を探すのは難しいですね。似たような生地でしたら上下ならお揃いできますが」「あっ、結構です」。また20万円なんて払えません。高級ブランドショップでは、いつものコナカや青山と違って、一着のジャケットに二本のズボンを買うことはできないのだ、ということを知ったのです。

それから1年たったある日、あるブランドショップに、あのアルマーニに似たような生地のスーツを発見しました。店員さんに怪訝そうに見られながらも10分くらいじっと観察し、家に帰ってアルマーニのジャケットの生地と比べてみると「微妙に違うけど、ほとんど同じだ!!!!!」。さらにその店ではスーツを買えば何本でも予備のズボンを買えます。私は8万円でスーツの上下を買って、さらに変えのズボンを2本買いました。これでスーツ上下2着セットとズボン一本です。アルマーニのスーツが復活した瞬間でした。

よく考えると、同じようなスーツが二着あっても仕方ないことなのですが、アルマーニが復活したことが嬉しかったのでした(笑)。

初夏です。バイクの季節です。最近は仕事で疲れて帰っても家の周囲を一回りして楽しんでます。             

昨晩は近所のショップに行ってオイル交換して帰ってきました。家に着いてガレージのシャッターを開けていると、隣の奥さんと、高校生くらいの娘さんと犬のムクちゃんに会いました。犬の散歩の帰りの様子でした。

私「こんばんわー(さわやか風に。笑)」

奥さん「こんばんわ。毎日、ムクちゃんが吠えてましてすいません。うるさくて迷惑かけてますでしょう?」

私「いえ、うちのマメやアズキも吠えてしまって、こちらこそ申し訳ありません。」

ムクちゃん「クウーン」

奥さん「今日はお仕事の帰りですか?遅くまで大変ですねえ。」

私「いえ、仕事から帰ってからバイクショップに行ってきたんです。その後、一人で近所を走り回ってました。」

奥さん「そうなんですかあ。お元気ですねえ。おやすみなさーい。」

私「おやすみなさーい」

んんん?お元気ですねえ・・・・・って。

私たちが、「お元気ですねえ」という言葉を使うときは、80歳くらいの高齢な方が足取りもしっかり散歩などしてるときですよね。

自分にその言葉をかけられたとき、なんとなく違和感を感じました。もしかしてオレって老けてみえるのかなあ。それとも49歳でバイクに乗ることがおかしいのだろうか。その晩は考え込みながら酒を飲んだので、翌朝は軽い二日酔いでした。

私の生涯でやりたい事のひとつに富士登山があります。その折には南極観測隊のタロとジロのように豆柴犬のマメとアズキを連れて行きたいと考えてます。

東京都世田谷区に住んでいたころは、天気の良い日には富士山がはっきりと見えて、二日酔いでも朝から爽快な気持ちになれたものですが、大阪からは残念ながら見えません。富士山は私にとって、思い出の山なのです。

はじめてバイクを手に入れ、一人で富士山までツーリングに行きました。夏だったのでなんと短パンにポロシャツといったいでたちです。中央高速に入って大槻くらいまでは快適に進みましたが、真夏とはいえその服装ではさすがに肌寒く富士山のふもとで折り返してしまいました。

車を買ってからは、自動車部の連中が授業が終わると「志賀、俺たち今晩、富士山までドライブに行くけどお前も行く?」と誘いに来るので「行こう行こう!」とついていったものです。富士山の樹海近くは深夜には街灯もなく真っ暗です。そこでキモだめしなどをして遊んでました。

大学時代、テニス部の夏合宿はいつも山中湖でした。朝から晩までテニスです。あのころは誕生日が同じビヨン・ボルグに憧れてました。いつかはウィンブルドンに出るぞ!なんて真面目に考えてました。山中湖は天気が変わりやすく、朝に晴天でも、突然雨が降ったりすることもあります。雨やどりをしていると、先輩が感慨深げに「志賀、山の天気と女の気持ちは変わりやすい、とはこういうことを言うんだ」私「ふむふむ」。

医師になって、富士市立中央病院に外科医として派遣されたので、1年間富士市で生活してました。不思議なことですが富士山のふもとにある病院からは、富士山が見えないのです。近すぎるからでしょうか?いまだに不明です。ただ富士市には製紙工場がたくさんあるので、その煙で見えない、という説もあります。

先日、福島に帰ったときに、快晴だったので飛行機から富士山がくっきりと見えました。あまりの美しさに感動して、デジカメを取り出して撮影していたら、CAさんがやってきて、「電子機器類の使用はご遠慮いただけますか。」「(えっ!電子機器って携帯のことじゃないの。知らなかった。)すいません。」

思い出はたくさんありますが、その富士山に自分の足で登ってみたいのです。聞いた話によると、一泊二日で登るらしいのですが遭難したりしたらどうしよう。マメとアズキは助けてくれるでしょうか。たぶん助けてくれないだろうなあ。

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私はお酒が嫌いです。いつも「どうしてこんなにまずいんだろう。」と思いつつ、もっと酔いたい、笑いたいという気持ちで飲んでしまうのです。

友人と一緒にお酒を呑んでいるときに必ず聞くことがあります。「ビールとコーラどっちが好き?」。ほとんどの方は「ビール」と答えます。次に、「味はどっちが好き?」と聞きます。そうなると考えつつも「つまらない質問するなよ」と言われます。私は味的にはビールよりコーラのほうが美味しいと思うのです。けど、コーラでは酔えませんよね。ですから、酔うために仕方なくビールを飲んでいるのです。

私はいかなる時も(たとえ真夏のハワイでも)昼から酒を飲むことはありません。真夏のゴルフの昼休みですら飲みたくありません。けど本物の酒好きは朝からビールを飲んでますよね。やはり私はお酒が嫌いなんでしょう。

私は若い頃、365日間、毎日飲酒しておりました。お酒を飲むと陽気になれるしイヤなことを忘れて楽しい気分になれるからです。コンパでもお酒の力を借りないと女性を口説けませんでした。私は陽気になることが好きだから、おいしくないと思いながらも我慢して深酒しているのです。

ワインは割と飲みやすいので好きなほうです。でも、ホテルのバーに行ってワインリストを見ると30万円なんてのもあってびっくりします。私は5000円くらいの渋みのある赤ワインしか飲みませんが、ロマネコンティという一本150万円のワインがあると聞きます。ダウンタウンの浜田さんの「芸能人格付けチェック」という番組で、ロマネコンティと3000円のワインを飲み比べて当てる番組がありましたが、食通とされている芸能人でさえ間違えてました。そんなのをみると、150万円という値段はどこから出てきたのでしょう。不思議です。もし5000円の300倍の金額のワインが300倍もおいしいのだったら、これから貯金して人生に一度くらい飲んでみたいものです。

 
私は美容院が嫌いです。若い女性で「美容院で髪を触ってもらっているときが一番に癒される。」などと言う方がおりますが、理解できません。

嫌いな理由① 周囲に若い女性がいると恥ずかしい。②頭が大きいのでタオルが頭に回らない。ギリギリな場合、タオルで結べず、輪ゴムで止められるのが恥ずかしい。③時間がかかりすぎる。じっと座っているのは1時間が限界 などです。

以前より、美容院の店長にお酒を呑みながら髪を切ってもらったら時間が短く感じるので「美容院+ショットバー」を提案しているのですが、保険衛生上許可にならないらしいのです。ですから美容院に行くのがおっくうで、髪はうっとおしくなるまで切りに行かないのです。biyouin.jpg

最近、美容師としての経験の少ない美容師の友人ができました。彼女の練習台を兼ねて家に来てカットとパーマをしてもらいます。これは楽しいですよ。片手にビール、テレビの前にどっかと座り、そのかわり終わったらお礼にご馳走させていただいてます。

髪を染めるのは自分でします。

ドラッグストアで購入し、お酒をのみながら染めていきます。あるとき、染めたまま寝てしまい、外人みたいな金髪になってしまったことがあります。橋下徹大阪府知事がバイクに乗って、[茶髪の風雲児]などと言われてましたが、私のほうが5年早くやってました。

今日6月6日は私の誕生日です。49歳は織田信長が暗殺された年齢です(笑)。江戸時代は医療が発達していなかったので「人生50年」などと言われてましたが、いまや日本人の平均年齢は世界一となり、80歳超です。まだまだ30年も生きなければいけません。

子供のころに自分がの50歳になるなんて想像すらできませんでしたが、いよいよ一歩手前まで来てしまいました。この49年間を振り返ると、いろいろありました。つらいこと、楽しいことの思い出が山盛りです。でも割合的には85対15くらいで、つらかったことのほうが多かったと思います。

体も心もバラバラになるくらい悲しいことも何度かありました。そんな悲しみを抱え涙が溢れて止まらなくても、街を歩くと、人の笑い声が聞こえ忙しそうに人が動いてます、花も太陽の光を浴びてキラキラと咲きほこっているので、孤独感のなかにすごい違和感を感じた記憶があります。そのときに「自分の悲しみなんて、全宇宙的に考えればちっぽけなことなんだ。これは心の中にしまいこんで、明日からまた元気に生きなきゃ。」と考え直したのです。

50年近く生きていると、多くの患者さんや友人と知り合います。いろいろな方の話を聞いていると、外からは順風満帆に見えている人でも、心の中にひとつくらいは傷をもって生きているということがわかってきました。私はつらいことがあると夜景の良いところに行きます。そこから高層マンションや住宅街の光を見て、「あの家庭ひとつひとつの数だけ悲しみや喜びがあり、みんな悩みながら頑張っているんだ。」と考えると、自分も負けていられない、と奮起できたりするのです。

これから、どんなにつらいことが待ちうけているかわかりませんが、そんなときにも「オレは死ぬまで頑張って生きる!」と自分に言い聞かせて乗り越えていこうと思ってます。

皆さんも、与えられたひとつの大切な命です。つらいことなんかに負けることなく楽しく生きていきましょう。

手術の際にものすごい緊張される方がいます。静脈麻酔を使用すれば寝てしまいますから問題ないのですが、二重や眼瞼下垂の手術は、術中に確認していただいたり、開眼して微調整しなければなりませんから、起きた状態で手術しなければならないケースもあります。

そんなときは、患者さんにリラックスしていただく為にいろいろな話をします。仕事や学校のことや、住んでいる町、おいしい店などについてです。話しはじめると力が入っていた筋肉が少しずつ弛緩され、痛みも軽減し、手術もやりやすくなりますし、より良い結果につながることが多いのです。そんなのを口麻酔といって、意外に効果的なのです。過緊張している方の手を看護士さんが握ってあげるだけでも、緊張がやわらぐのと同じですね。

先日、いつもの調子で「仕事は何をしてらっしゃるのですか?」

患者さん「普通の事務ですが、お話しながら手術して集中できるのですか?」

私「・・・・・・・・・・・・・・・。では集中します。」

そこまで気が回る人には口麻酔などは不要です(笑)。

アニメの主題歌には思い出深いものがたくさんあります。私の世代だと巨人の星「思い込んだら 試練のみちをー ゆくがー男のー ど根性ー」。小学校のころ、私を勇気づけてくれたものでした。

最近、48歳の私を勇気づけてくれるアニメソングを紹介します。

    アンパンマン   作詞 やなせたかし  作曲 三木たかし

そうだうれしいんだ いきるよろこび

たとえ むねのきずがいたんでも

なにがきみのしあわせ なにをしてよろこぶ

anpanman.gifわからないままおわる そんなのはいやだ

わすれないでゆめを こぼさないでなみだ

だからきみはとぶんだ どこまでも

そうだおそれないで みんなのために

愛と勇気だけがともだちさ

ああ あんぱんまん やさしいきみは

いけ みんなのゆめまもるため

たかがアニメですが、元気づけられる素晴らしい詞と曲だと思いませんか?

「あんぱんまん」のところを「リッツ美容外科」に変えてクリニックの社歌にしたいくらいです。

高校2年の夏、東京の予備校に勉強に行きました。兄が東京の大学に行ってたので、いろいろ案内してもらいました。兄が「おいしいもの食べさせてあげるよ。」と。連れて行ってもらったのは、現在は新宿のアルタになってますが、その地下にあったマクドナルドでした。

その当時(30年前)はコンビニなんて存在してませんでしたし、私の田舎にはハンバーガーなんてありません。はじめての経験でした。なんだこれは!二枚も肉がはさまっているパンだ!それがビッグマックとの初対面でした。バクッ!「うまい!」。さらにフライドポテトのおいしいこと!これも初体験でした。

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兄「おいしいだろう!」

私「うまいねー。東京にはこんなおいしいものがあるんだー」

兄「早く大学に受かって東京に来いよ。」

私「うん」

それから東京にいる間はずっとマクドナルドで食事をし、2週間で3kg増えて田舎に帰りました。

父「おまえ、そんなに太って東京で遊んでたんじゃないだろうな!」

私「シュン」

東京にはじめて住んだのは18歳のとき、中野でした。駅前に目立つ大きな外人さんの人形と、店の中からおいしそうな香り。店内は混み合ってました。これは何の店だろう。栃木県出身の友人と店にはいりました。「なんだ!から揚げ屋さんだ!買って帰ろ!」お腹がすいていたので3ピースのセットを買いました。仕送りの金額は決まってますし、バイトもしてませんでしたからその当時に800円は大出費でした。

4畳半一間の部屋に帰って友人と食べ始めます。

「うまい!!!」

「東京にはおいしいものがたくさんあるんだなあ。でも、ごはんを買ってくるのわすれたなあ。まあいっか。」

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コールスローサラダもおいしいし、その当時はロールパンがついてました。それで満腹です。それが生まれてはじめておかず(お肉)だけで、満腹になった瞬間でした。本当に幸せな気分になったのを覚えています。

最近テレビで観て知ったのですが、沖縄では、ケンタッキーフライドチキンをおかずとして食卓に並べて、箸で食べるそうです。私も田舎から出てきたころは、お肉を食べるときは必ず、ごはんのおかずとして食べていたので、沖縄の人達の気持ちが理解できます。

お恥ずかしい話。友人とケンタッキーに行きました。二人で話しながら食事も終盤。私は食べ終えてました。友人が「私、トイレに行ってくる。」「ああ、いいよ。」ケンタッキーはセルフサービスですから、自分で片付けます。おや、フライドチキンの一番好きな、味のよくついている皮の部分がバスケットの中にあるではありませんか。心の中で「ラッキー」。つまんでパクリと食べてしまいました。友人が帰ってきました。「えー!片付けちゃったのー」「え、どうしたの?」「あの皮の部分、最後に食べたかったのにー」「そうなんだ。ごめんね。また来ようよ。」「うん」・・・・・・私が食べてしまったことは言えませんでした。

関西に来てから困っていることのひとつに、薬味としての「ネギ」の問題があります。

私の生まれた福島、大学時代を過ごした東京では、うどん・そば・ラーメンには薬味として刻んだ白ネギを使います。食卓にあがる納豆にも白ネギです。関西・四国・九州ではうどん・そば・ラーメンの薬味には刻んだ万能ネギ(青ネギ)を使います。

しかし、ふぐの「てっさ」や鍋物の薬味には関東も関西も万能ネギだったと思います。素材の味を楽しむには白ネギは強すぎるのかもしれません。私も「てっさ」や鍋物のポン酢には青ネギがあっていると思います。

私には、うどん・そば・ラーメンに薬味としての青ネギは、どうしても物足りない感じがしてしまうので、行きつけの蕎麦やさんに行くときには、刻んだ白ネギを持参し、許可を頂いて使わせていただくこともあります。

江戸時代、関西の人達は「関東の奴等は田舎者が多いからネギの白いところまで食べるらしいで。」などと言って嘲笑していたようです。一方、関東の人達は「関西人はケチだから、ネギの青いところまで食べるらしいよ。」などと言っていたようです。今考えれば笑い話でネギの種類が異なるのです。

これは噂ですが、白ネギ派と青ネギ派の境界はどうやら関ヶ原あたりらしいのです。関ヶ原の方、情報をください(笑)

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♪6がつ6かに雨ザーザー降ってきて♪というコックさんの絵描き歌があります。私は6月6日のじめじめしたときに生まれました。ですから誕生日はいつも雨でしたし、デートの時もじめじめしてました。 

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昨年から家庭菜園をはじめ、すいかの苗を庭に植えてみました。梅雨前までは成長が遅く、あきらめかけていたのですが梅雨になって毎日のように雨が降ると、ぐんぐんと成長し、あっという間に実をつけたのです。それ以外のきゅうりやとうもろこしもこの時期に一気に成長しました。それから梅雨が好きになったのです。

今年はきゅうりにナス、ピーマン、枝豆、スイカ、トマトの種をまきました。今、昨秋に植えたさやえんどう、エシャレット、にんじん、大根の収穫の時期を迎えています。daikon.jpg

 
出勤前に庭に出て野菜のチェックするのが楽しみになりました。年をとると土いじりが好きになるといいますが、どうも本当のようです。

 
 

rolex.jpg私はなぜか装飾品には興味が湧かないのです。女性がある程度着飾ることはかわいいと思うのですが、男性で過剰に高価な時計やネックレス、洋服を着ている方の目的が理解できません。もし、「オレは金持ちなんだぞ!」ということを見せたいのだけでしたらイヤらしいですよね。

私は仕事先や飲みに行くと腕時計をはずし無くしてしまうので普段から腕時計はしません。それに時間が知りたい時は携帯電話で見ることができるので、不自由しないのです。腕時計に対する気持ちはそんなものなので、以前にセブンスターを1カートン買うとついているおまけの腕時計を喜んでつけていたら、看護士さんにからかわれたこともありました。

6年前に韓国旅行をしたときに、偽物のロレックスの腕時計を売ってました。友人がそれを買って旅行中につけて遊んでましたが、旅行が終わったら私にくれたのです。私は喜んで腕時計をいただきましたが、それを使うことはありませんでした。

あるとき、バイク仲間の20歳の大学生、たけし君と飲みに行くことになりました。たけし君は彼女ができたので、私に自慢したかったらしいのです。彼女は21歳、夜のお仕事をしている方でした。お洒落な店に連れていく約束でしたから私も多少きれいな恰好をしなければなりません。私は何気なくあの偽者の腕時計をして行ってしまったのです。

たけし「由美ちゃん、この人は志賀先生といって、リッツ美容外科の院長なんだよ。すごいだろ。」

私「いやいや、開業したばかりだし借金だらけで忙しいし、大変なだけで、全然すごくなんかないですよ。」

由美ちゃん「リッツ知ってるー。友達で二重やってた子いるよー。腫れなくてメッチャ喜こんでたあ。すごーい。」

たけし「持ってる物も違うよなー。その腕時計、ヨットマスターっすか。100万くらいするんすよねー。すげーなー。」

私「え!!!(時計の名前なんか知りません。ヨットマスターってこの時計の名前なんだ・・・汗)。あーそうか、うん、これね。そうかなあ。高いよねー。ちょっとトイレ行ってくるね。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・トイレですぐに時計をはずしたのは言うまでもありません(汗汗)。

たかが腕時計でこんなに恥ずかしい思いをするとは思いませんでした。翌日、梅田の阪急デパートで、泣く泣くロレックスのヨットマスターを買いました。生まれて初めて自分で買った唯一の腕時計です。

知らないって怖いですね。本物と偽者を並べて比較すると、全く違うものです。あー恥ずかしかったあ。

先日「世界ウルルン滞在記」という番組で、田山涼成さん(最近では日本のドラマ、映画でよく拝見する、髪の薄いやさしそうな方です。白い巨塔というTVドラマでガンで亡くなった役をしている方です)が韓国のかつら作り名人を訪ねて、自分のかつらを作ることにチャレンジしてました。

そのかつら名人の店にはいろいろな方が来ます。番組の中で、店に来た客の一人は学校の先生でした。若くして髪が薄くなってしまったので老けてみられるし、恥ずかしい、と。それでかつらを作るために奥さんと一緒に来店してました。さらにできあがったかつらをつけて、翌日に卒業式に出席するのだということなのです。(日本では奥さんとかつら屋さんに行くことですら考えられないことなのに、卒業式なんかに出たら、ウケ狙いと思われるか失笑を買うのは明らかです。)さらに驚いたことには、その韓国の先生はかつらをつけて卒業式に出席したところ、「かっこいい!!」と大受けだったらしいのです。うーむ。

クリニックにも韓国の方はよくいらっしゃいます。日本の方は「あまり変化が強くないように自然な感じでお願いします」ということをよく伺いますが、韓国の方は「友達に知られてもいいからはっきりとした変化がほしい」とおっしゃる方が多いのです。一番ビックリしたのは、エラを削った翌日に電話がかかってきて「先生!本当に削ってくれたの!みんなにみせたけど、誰にも変化ないっていわれたよ。」「あのー。手術の翌日ですから、ある程度の腫れはあるんですよ。1-2週間経ってから見せてあげてください」。・・・・・・・・・・・・・・その2週間後、腫れがひいたら大喜び!!「みんなにほめられた!ありがとう先生!!」「ふぅ。」

中国、韓国、アメリカの方たちは、美容外科手術を隠すことも恥らうこともなく、堂々と受けます。やはり大陸と島国の国民性の違いなのでしょうか。日本人は奥ゆかしすぎるようです。

ウルルン滞在記の番組の最後にかつらをつけた田山涼成さんが出現しました。確かに若返ったのですが、今のやさしそうな味のある雰囲気はなくなってしまいました。どうやら、かつらをつけたから良いということではなさそうですね。

私が高校2年生のある日、友人の馬場君の家に数学を教わりに行きました。彼は遊んでてもなぜか勉強ができる憧れの天才タイプでした。勉強を一時間くらいしてから帰ろうとすると「バイクに乗って行く?」の言葉。私は驚きました。

その当時の社会状況はバイク=暴走族=不良でしたから、バイクなどに乗る生徒など学校にはまったくおりません。さらに田舎とはいえ公立の進学校ですから、バイクなど乗っているのを見られたら、すぐにバレて退学です。私などは自転車しか乗ったことはありませんでした。

それはホンダのCB400four into one(通称ヨンフォア)という、当時では(現在に至っても)暴走族に人気のあるバイクでした(その爆発的人気のため社会問題になり、ホンダが製造中止にしたといういわくつきです)。はじめてヨンフォアを馬場君に見せてもらった時のシーンは今でも忘れません。キラキラッとメッキに太陽の光を浴びた小さな鉄の塊。きれいな黄色のタンクは私の心を吸い込んでしまいました。ヘルメットをかぶせてもらいタンデムシートに乗って出発準備。エンジンをかけると、ギュルギュルギュルとモーターのような音色。自転車にはない速さで風を切り見知らぬ土地へと導いてくれました。私はいつか手にいれるぞ、と心に決め自転車に乗って帰宅しました。

それをやっと手にしたのは大学に入学した年で、通学もヨンフォアでした。それから28年経った今、そのときのヨンフォアは部屋の中でゆっくりと休んでいます。

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私は蕎麦が大好きなのですが、大阪の方はうどん好きが多いのでおいしい蕎麦屋さんが少なく困っております。

今日は簡単にできる関東風の[鴨汁そば]の作り方を紹介します。

用意するものは白ねぎに合い鴨、追いがつおつゆ(ミツカン)、と生そばです。

4cmくらいに切った白ねぎはかるく焼き色がつくまで焼いておきます。ミツカンの追いがつおつゆ100mlに水200mlの割合で暖め、沸騰したら合い鴨を投入し鴨に火が通ったら焼いたねぎを投入、火を止めます。ダシはこれで完成です。

生蕎麦はたっぷりの熱湯の中に投入。さし水をしながら2分間ゆでます。蕎麦は少し硬めになりますが、湯を切ったあと氷水の中に一気に投入します。1分くらい冷やし、水をきちんと切って完成です。ユズを一片、みつばがあれば、より良いですね。

弱いのにたちむかってくるオイシイ人を「おー!鴨がネギしょってやってきたぞ!」などといいますですが、なるほど鴨とネギの相性はとても良く、オイシイですよ。

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国家斉唱!!六甲おろしにーさっそうとーそうーてんかけるーにちりんのー♪・・・・と、試合前になると甲子園の外野応援席では黄色いメガホンを持っておなじみの応援歌がはじまります。そう、私はトラキチです。

福島生まれの東京育ちである私がタイガースファンであることは皆に不思議がられていました。「なんで東北なのにタイガースファンなんだよ?」確かに田舎では巨人ファンがほとんどでした。それは当たり前です。テレビでは巨人戦しか放映してませんしアナウンサーも巨人びいきです。ですから正義の味方巨人と悪役の他球団といった様相になってしまいます。ですから、わざわざタイガースファンになって仲間はずれにされる必要もないのです。

私は4人兄弟(男3人、女1)です。勉強もスポーツも、お菓子の取り合い、風呂の順番にいたるまで兄弟と争ってました。男兄弟というものはなんでも上下関係で成り立つものです。その当時、芸能界に新三人娘というものが存在してました。小柳ルミ子、天地真理、南 沙織です。こんなことまで争いごとになりました。兄が小柳ルミ子といえば、同じタレントを良いということさえ許されないので、私は天地真理を選択します。弟には選択権はありません。「おまえは南 沙織ね!」小さい弟は「うん、わかった。」といった調子です。次の世代の中三トリオのときは、兄が山口百恵といったら、私は興味なくても桜田淳子。選択権のない弟は森 昌子でした(笑)。

こんな調子ですから、プロ野球では当然兄は巨人を選択します。そうなったら私は野球のルールも知らないのに阪神タイガースです(なぜか弟の巨人ファンは許されていました)。長い間「プロ野球はどのチームが好きなの?」と聞かれ続け、「阪神タイガース」と答え続けているうちに本気の阪神ファンになってしまったのでした。

今年もいよいよプロ野球が開幕します。宿敵読売ジャイアンツとペナントレースの最後まで争った上で阪神タイガースが優勝してほしいものです。

NHKに、「その時歴史が動いた」という番組があります。ある歴史上の出来事がある人物のある決断によって起きた、ということをさまざまな証拠をもとにretrospectiveに検証していくという番組です。番組の途中で松平キャスターが「それは歴史が変わる一ヶ月前の出来事でした」の言葉で私の心はドキドキしはじめます。番組終了10分くらい前には「さて、今日のその時です」の言葉に目はテレビに釘づけ状態です。

私も人生の中でさまざまな分岐点に遭遇します。右か左かどちらに行こう。悩んだときは苦難の道を選べ。といった諺もありますが、retrospectiveに考えると、必ずしもそうではないこともあります。分岐点に立った時、自分の歴史がどう変わるのかを番組を思い出しながらじっくり考えます。

私の歴史は東京院の広比院長に変えていただきました(笑)。(それは歴史が変る3年前の出来事でした)ある美容外科で広比先生と一緒に働いていたことがあります。そこのクリニックが大阪に新規開業することになりました。誰もが大阪に行きたくありません。飲み会でその話をしている時に

広比「大阪人のノリについていけるのは志賀先生しかいないでしょう(酔笑)。」

皆「ハハハ!そうだそうだ(酔笑)!」

私「ハハハ!そうかなあ!じゃあ、いずれは東京に帰ってくるという約束で、行きましょうか(酔笑)。」

数週間後、私は東京を後にしました。私は院長として、そこのクリニックのために必死で働きました。しかし、3年も経ったころ、クリニックと方針があわず、悩んでおりました。私は決意を固め、広比先生に相談したのです。(さて、今日のその時です)

私「もう、このクリニックには限界を感じております。申し訳ないのですが、辞めることにしました。」

広比「え!私も同じことを考えておりました。それなら一緒に開業しましょうか」

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思わぬ展開に驚きましたが、真摯に働く広比先生とならば運命共同体でいけるな、と考えリッツ美容外科が誕生したのです。その後、阿部先生、古屋先生、山岸先生に次々と参加していただき現在に至るのです。開業して9年目になりますが、お互いに意見を言い合い仲良くやってきたと思います。

いずれ歴史が動くときがくるのでしょうが、その時まで頑張ります。

 

勤務医のころ土日当直の暇なときに競馬をやっていたことがあります。先輩たちにいろいろ教わって研究しているうちに、競馬の奥の深さを知りました。

それまで競馬というものはおじさんたちが赤鉛筆を耳にかけ競馬新聞を片手に酒を飲みながらやっている「ばくち」的な暗い印象があったので近寄り難かったのですが、約20年前くらいから武 豊さんの出現とともに競馬場は整備され女性ファンも増え競馬界のイメージが一新されました。

競馬新聞が読めるようになると、血統を見るために両親の名前を見ます。すると驚いたことに父親が一緒なことが多いことに気付きます。つまり異母兄弟の戦いです。18頭のレースで8頭の父親がサンデーサイレンスということもありました。兄弟喧嘩のようですね。

サンデーサイレンスという有名な牡(オス)馬がいました。この馬は現役時代に大活躍したので、レース馬を育てている人たちは、この馬と自分の持っている牝(メス)馬を交配さ早い子馬を作りたいと考えます。ですからサンデーサイレンスは毎日のように、交配料をいただいて牝馬と交配しているのです。一夫多妻性どころではないモテモテぶりです(こういうのを種牡馬つまり種馬といいます)。ですから現役時代にG1レースなど大きなレースに勝てば、楽しく生きていく切符を手に入れたようなものです。

昔からこうやってレース馬は作られてきたので血統の悪い馬はいない訳です。ですから牝馬の場合は現役時代のレースの成績が悪くても出産できるので、生きていけるわけです。

大変なのは牡馬です。サンデーサイレンスが何頭もの牝馬と交配させてしまうから、優秀ではない牡馬は余ってしまうのです。しかし、たとえ現役時代に成績が良くて種馬になったとしても、できた子供たちがレースで良い成績をあげなければ種牡馬失格になってしまうこともあります。人間は競馬を楽しんで見てますが、馬にとったら生き残りレースなんです。そう思うと、人間のしていることは残酷なものですね。

あばれ馬はおとなしくさせるために去勢手術をしておとなしくさせます(犬も去勢手術をするとおとなしくなりますよね)。そういった馬をせん馬と呼びますが、当然、現役が終わっても種馬になれませんから、たとえG1レースに勝っても走れなくなるまで走らされるのです。かわいそうですね。

聞こえませんか?G1レースの出走前です。

A牡馬  G3,G2と勝ち続けてきたんだ!このレースに勝ってかわいいあのメス馬と子供をつくるぞ!ブルルルル!!

B牡馬  そうはさせるか!オレだって長い間このチャンスを待ってたんだ。負けてソーセージなんかになってたまるか!!ブヒン!ブヒン!

C牡馬  フフフ!オレなんか種馬が決定してるから余裕さ!まあ交配料金をつりあげるためにもう少し走ってやるか。ヒヒヒーンヒン♪

D牝馬  私は女の子だからソーセージにはならないけど、いい男と子供作るためにがんばっちゃお!みんながんばってね♪待ってるわ♪

Eせん馬  どうせオレは種馬になれねーから、稼ぐだけ稼いで北海道で悠々自適さ!ブヒヒーン! 

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あれ?人間の世界と変らないかな(笑)

1600年 関が原の戦い。

このときに東軍の徳川家康が勝利をおさめなければ坂本龍馬は誕生しなかったのかもしれません。四国の殿様である長宗我部氏は西軍に味方しておりました。ですから関が原の戦いで敗北した西軍は東軍に支配されることになります。家康は土佐を支配するために山内一豊を土佐に配置しました。その瞬間から、それまで長宗我部に仕えていた武士を下級武士、山内家を上級武士という身分差別の中で250年にわたって土佐は支配されたのです。それは上級武士が下級武士を道端で切り捨てても許されてしまう虫けら扱いの差別です。その差別に反発する強いエネルギーの中から革命家として生まれた立役者のひとりが、坂本龍馬です。彼ののびのびとした生き方は日本人の夢を誘います。龍馬は生まれつきの武士ではなく(才谷屋という質屋の息子)、下級武士の階級を買った武士ですから下級武士の中でもさらに下に位置する郷士です。現代こそはっきりとした差別は日本には存在しませんが、そんな時代の身分の低い彼が、どこでどうなったのか勝海舟、西郷隆盛、福井藩の殿様と知りあい仲良くなって世の中を動かし、江戸時代を終わらせてしまったのですからビックリします。

私は関西に来てから史跡めぐりが好きになりました。毎年2月に母が大阪に来るので恒例の「史跡を訪ねて」旅行に行っております。今年は私が最も尊敬する坂本(龍馬)直柔の生まれ故郷である高知県の土佐でした。

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桂浜に立つ威風堂々とした龍馬像。今でも龍馬は水平線の遠くを眺めてます。桂浜から見える太平洋の丸い水平線を眺めれば、私ですら水平線の向こうはどうなっているのかを覗いてみたくなる気持ちになってしまいます。もし龍馬が暗殺されなければ日本はどうなっていたでしょう。今よりもっと良い世の中になっていたでしょうね。しかし彼は世界を駆け巡りたい人物でしたから、一度くらいは日本の首相を務めても、それにとどまらず世界的な偉業を成し遂げていたはずです。どの国にもほとんど利益のない戦争もなかったかもしれませんね。そう考えると本当に残念なことです。 

kouchi1.jpg桂浜の龍馬像は昭和3年に建立されたらしいのですが、これを計画した人は、その土地の所有者が誰なのかも調べずに「龍馬先生の像はここに建てる」と決めて建ててしまったらしいのです。いごっそう(快男子)、はちきん(はつらつとした女性)と呼ばれる土佐人気質ならではのエピソードですね。

中学時代は学校の規則で全員坊主でした。小学校の6年生の夏休み頃からクラスの中に、ひとりふたりと頭を丸めてくる子供が増えてきます。中学を卒業後、高校では髪型が自由なので、皆のばしはじめます。時代背景は60年代、ビートルズ全盛期、日本ではよしだたくろうが「ぼくの髪がー肩まで伸びてーきみと同じにーなったらー約束どおりー街の教会で結婚しようよー」と歌ってました。町中の男性が江口洋介状態です。しかし私の父は厳格でしたので、高校生になっても家族ルールで常に坊主です。年頃なのに恥ずかしいものでした。

親元を離れて東京に出てきてからは髪を伸ばし放題。大きい顔も髪型によって小さくみえます(笑)。そんなとき、田舎にいたころに憧れていたユウちゃんと連絡が取れ、東京で会おうということになりました。私にとってはワクワク状態。ビシッと決めて惚れてもらおうと気合充分でした。しかし、ストレートの髪型ではいまいちと考え、そのときトップスターだった西城秀樹みたいな髪型になろう!と計画しました。早速、ヒデキの写真の切り抜きを持って美容院にいきました。その当時、床屋さんにしか行ったことのない私にとっては思い切った行動でした。美容院のおにいさんに、こうしてください、と、ヒデキの写真を手渡し、パーマをかけてもらいました。自分の顔を見て、おおヒデキになった。町中のみんなが自分のかっこよさに注目度100%!帰り道で間違われたらどうしよう!など考えながらスキップ状態で帰りました。さあ、明日はデートだ!その当時は風呂なしの四畳半一間でしたから、翌日にそなえて友人と銭湯にいきました。友人もきめてるなあ、と褒めてくれるので鼻高々状態です♪。銭湯で普段よりたっぷりのシャンプーで洗髪し、体中をくまなく洗いました。気になったのは、さっきまでヒデキだった髪型が洗髪するとくるくるになってしまったことでした。当時100円の銭湯代にみあった時間をすごし、髪をドライヤーで乾かしはじめると、ヒデキの髪型はどんどん膨らんでいきます。くるくるドライヤーなんて世の中に存在してませんでしたし、セットの仕方などわかりません。私の手には櫛一本です。

翌日です。ユウちゃんが高田馬場のビッグボックスの前にいました。「久しぶり!」ユウちゃんは私の顔を見て「ぷっ」とふきだし笑いだしました。「志賀君どうしたのーその頭!笑笑笑!つのだ☆ひろみたーい。」一晩中いじりまわしてもどうにもならなく、私の頭はヒデキの髪型ではなくアフロヘアになっていたのでした。東京での初デートは無残に終わり、その後30年間会ってません・・・・・・・・・・・涙涙涙。

afuro2.jpg23歳くらいの私です。意外に男前ですよね(苦笑)。多分、こんな感じでデートに行ったのだと思います。

明日から4日間毎日輪郭形成(エラ削り、アゴ削り)です。

エラ、アゴ削りは出血も少なく、リスクがほとんど無い手術なので、エラ削りがある日は朝から緊張しつつもワクワクしてます。しかし集中力は必要ですから風邪をひいたり、寝不足は避けなければいけません。前の晩は禁酒して早めに寝るようにしてます。

エラ削りの相談にいらっしゃる女性でショートヘアの方は皆無です。皆さん、普段から輪郭を見られたくないのか髪で隠しているのです。驚いたのは髪を頬に糊(ソックタッチ)で貼りつけ、風邪が吹いても見られたくない、といった方でした。輪郭のコンプレックスの深さがわかります。そんな方が一ヶ月後の検診のときに表情が明るくなり、輪郭のはっきり見えるポニーテールになって感謝の言葉を頂いたときこそ、医師冥利につきる瞬間です。今回の方たちは、悩みの深さ、希望はそれぞれですが、カウンセリングの時のシミュレーションどおりに必ずなります。その日を楽しみに来院してください。皆さんも風邪をひかないように注意してくださいね。

私の趣味のひとつに映画鑑賞があります。 好きな映画はたくさんありますが、このところの最高傑作は、私の生まれ故郷を題材にした「フラガール」です。蒼井優さんの熱演もさることながらジェイク・シマブクロさんのBGM♪も最高で、いわき市の人間には涙なくして観られる映画ではありません。(私だけ?)

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昭和40年、常磐炭鉱では石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、多くの炭鉱夫が石炭を掘って生活しておりました。私が小学生の頃は、教室の暖房も石炭のストーブでした。そのうち石油が出現したため日本全国での石炭の需要は減り、教室のストーブも石油ストーブに変わりました。煙をもくもく吐いてガッシュ!ガッシュ!と走っていた蒸気機関車(気車)も廃車となり、今でも公園に寂しそうに展示されております。その後、鉄道は軽油で走るディーゼル車に変わっていきました。炭鉱はこの時代の流れに逆らうことはできず、炭鉱夫のリストラが始まりました。そこで温泉を利用し、元炭鉱夫やその子供たちを再雇用して常磐炭鉱を再生しようとして誕生したのが常磐ハワイアンセンター(現在のスパリゾートハワイアンズ)です。[フラガール]鑑賞希望の方には無料でDVDをレンタルします。

地元の人しか知らない話です。石炭を掘るには大量の温泉が噴出するのですが、それを川に流していたので川の温度は常にぬるま湯状態で、冬は湯気がたっていました(信じられないでしょ)。その川へ熱帯魚のグッピーを誰かが逃がしたのでグッピーが大繁殖していました。ですから他の地域の子供たちがめだかとりをしているころ、私たちはグッピーをとっていたのです。しかし、閉山とともに川の水温は下がり、グッピーたちもどこかへ行ってしまいました。

私は独身生活が長かったせいか、料理が得意になりました。医学生のころは居酒屋に行くお金がなかったので、お酒を飲むときは友人を家に呼んで材料費をワリカンして飲んでました。もちろん私がシェフです。今でも週末は友人を呼んで私が料理して振舞っております。女性の料理のように凝ったきれいなものは作れませんが、とんかつ、から揚げ、酢豚に八宝菜にチャーハン、カレーにハンバーグ、角煮に手羽先(名古屋風)、鍋などなど、酒屋でおいしいと思ったものを、いろいろな調味料を化学実験のように混ぜ合わせて作っております。包丁も調理前には必ず砥石で研いで、切れ味を楽しみつつ作るのです。またこれがストレス解消にもなるのです。

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関西に来てはじめて作ったのは、なんと梅干しでした。 和歌山の白浜温泉に行った帰りに、なんとなく紀州梅干し館に立ちよりました。そこで見たのは江戸時代に作られたという、塩をたくさん吹いた乾いた梅干しでした。これを見て、日本文化の保存食の素晴らしさに感動してしまいました。こうなったら猪年である私の行動は猪突猛進です。梅干しの漬け方の本を熟読し、塩分が14%あれば腐らないという科学的裏付けを知りました。本当はハチミツ漬(塩分8%)を作りたかったのですが、素人は塩分の少ない梅干しを作るとカビを発生させ全滅させるため14%で作ること、と書いてあったので、私は化学の実験のようにコツコツと作りはじめました。梅干し作りは感動がたくさんあります。南高梅の香りは桃と同じ強い甘い香りで、部屋中にいい香りがたちこめます。1kgに対し140g(14%)の塩をちりばめ、重しをすると、一晩で少しピンクがかった透き通った液が梅から溢れでてきます(梅酢といいます)。
 
何日間かは待ち遠しいのですが、カビをチェックしながらじっと待つことも大切です。赤梅干しを作るときはシソの葉を塩もみして投入するのですすが、投入直後より渋そうな紫の葉っぱから美しい真っ赤な色が染み出してきます(WOW!)。この色が梅にしみこんだころに天日干しをして梅干しが完成するのです。これを10kgずつ3年間やったものですから、今、家には人生分の梅干しがあります。
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少しずつ友人にあげて随分減ったのですが、まだまだ場所をとって困ってます。ついでに梅酒まで大量に作りすぎ、まだまだ減りません。誰かもらってくださいませんか?私は作りたかっただけなんです(笑)

 

今日は大阪府知事選挙です。私は大阪生まれではなく1年前に兵庫県から引っ越してきたばかりなので、なんとなくなじめないのですが、良い大阪になって欲しい気持ちをこめて投票してきました。不思議なんですけど投票所ではものすごく緊張して、投票後はものすごい達成感を感じるんです。

小学6年生のとき、生徒会副会長に立候補したことがあります。そのときの生徒会長の有力候補は学年一のアイドルTさんでした。私も本当は生徒会長になりたかったのだけど、Tさんが生徒会長に立候補するのを知って副会長に変更したのです(ズルいよね)。そのおかげでTさんも私も当選し、他校との交流会や生徒会活動を一年間一緒に行動できて楽しい思い出となりました。小学生の小さな選挙でしたけど、投票日はドキドキしたことを覚えております。

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 当選発表!橋下とおるさんが府知事になりました。おめでとうございます。大阪府民のためにがんばってください。

さあ2007年も終わりだ!2008年は今年以上にがんばるぞー!

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2007年12月31日、信心深い私は紅白歌合戦とK1を交互に忙しく見た後、一緒に年越しした友人達と近所の神社に初詣に行きました。除夜の鐘の音を聞きながら、[神様、今年も健康に生きることができました。来年もリッツ美容外科の繁栄をよろしくお願いします。それと田舎の両親、兄夫婦の健康と甥の受験合格をよろしくお願いいたします。]と1000円のお賽銭の割にはたくさん祈りました。

さて次はおみくじです。大吉では調子良すぎるから吉でいいや。さーてなんだろうワクワク・・・・・・・・・・・ビリッ・・・・・・・・・・・うそお!!凶!今日!京!凶っ!!!!!!!!!!!ガーン

皆、「凶は少ないから逆に縁起がいいんだよ!」などと慰めてくれるけど、同じく少ないものなら大吉がよかった。ぶつぶつ・・・(涙)。帰り道は肩をがっくり落とし、おみくじなんて関係ないや!と自分を慰めながら帰りました。

それから一週間後の出来事です。信心深い私は、毎月1日の朝にはクリニックの近所の神社でクリニックの繁栄を祈りに行っております。正月は初詣です。神前に案内された私は姿勢を正して座りました。巫女さんがジャランジャランと私の頭の上で鈴を鳴らし、祝詞がはじまりました。神主さんが渋い通った声で「こーこーにおられーるーリッツ美容ー外科のー志賀由章のー」私も頭の中を真っ白にし、徳をたくさん受けられるように全身を集中しておりました。

そのときでした・・・・・・・・・・・・・・・・プツン・・・・・・・・・・・・・停電です。真っ暗です。・・・・・・・・「マジ!かよ!」。すぐに電気はつきましたが、神主さんは動揺することなく祝詞を唱え続けておりました。私の頭の中は、あの凶のおみくじで一杯になりました。はぁぁー。

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それでもなお信心深い私は(大阪名物)十日えびすに行きました。屋台がたくさん出ていてとてもにぎやかです。不況だというのに頭の上をお賽銭がとびかっていました。「年のはじめの♪えべっさん♪商売繁盛♪笹持って来い!商売繁盛♪笹持って来い!」というエイトビートの音色に心地よくのせられ、お賽銭をはずみ、かわいらしい巫女さんにいろいろなお飾りを笹につけていただきました。帰り道はおみくじ売り場を見ないように避けて通ったのは言うまでもありません。(笑)

追伸です。少ない凶をひいたおかげで新年からクリニックは順調で、甥は高校に合格しました。

はじめまして。

 

大阪院院長の志賀由章です。

私は幼少時より文章を書くのが苦手なので他人まかせにしていることが多かったのですが、自分を知ってもらうにはブログが必要とされている現代、重い腰をあげて書いてみることにしました。

まず、自己紹介からいたします。昭和34年に福島県いわき市の開業医(外科・整形外科)の次男として生まれました。映画「三丁目の夕日」のようなセピア色の時代です。スポーツが得意で、市内の野球大会では活躍しておりました。一方、子供のころから細かい作業が大好きで、油絵を書いたり、書道(三段)、ピアノを弾いたり、機械部に入部して自分でおもちゃを作って遊んでおりました。そのころの夢はプロ野球の選手、阪神タイガースに入団することでした。(今でも岡田監督が勧誘にくる夢を見ます)。しかし体格的にスポーツは無理であることがわかり、尊敬する父の職業でもある医師の道を選択することになったのです。

大学(東京慈恵会医科大学)に入学してからは、とりあえず勉強から開放された喜びから、テニスやサーフィン、憧れていたバイクを購入し、ツーリングに明け暮れる毎日でした。今考えればあの頃が、人生で一番楽しかったピークだったようです。大学の授業では形成外科と産科(出産、不妊治療)が好きでした。形成外科の中ではマイクロサージャリーの精密さに感動したのを記憶しております。産科で出産に立ち会った時の感動は今でも記憶に鮮明に残っております。しかし、最終的に選択したのは外科になってしまいました。

私たちの時代の研修医制度は医師免許を取得すると外科系に進む医師は外科系の科を研修して回る事になります。私は麻酔科と産婦人科、形成外科、外科を選択しました。心の中では形成外科と決めていたのですが、外科の研修中に羽生先生という素晴らしい師に出会ってしまいました。その先生は患者さんからは大変に信頼され、他科の医師、看護師からも尊敬され、さらに研究も人一倍熱心で、さらに研修医である私たちの話もよく聞いてくれました。朝から何時間もの手術をして疲れているのに、その後外来、病棟での回診を嫌な顔など一切せずに、土日もなく夜遅くまで働くのです。そんな姿を見て私の中に[こんな医師になりたい]願望が湧いてしまったのです。友人に進路を相談すると、外科医になって全身管理、救急処置、胃癌や乳癌の手術を学んでからでも美容外科をするのは遅くないのではないか、と言われ、10年間は外科医として勉強することとなったのです。現在でも羽生先生にはまだまだ及びませんが、人の話をよく聞く姿勢、時間を問わずに患者さんが求めるならば働き続けることはそこから学びました。その後、羽生先生とそのスタッフの協力を受け、胃の幽門輪について研究し、医学博士までも取得させていただきました。しかし外科医となってからは大変で、癌と立ち向かう患者さん、家族の喜びや悲しみ、救急外来での予測されない事故、そして突然の死はどんなに経験のある外科医でも自分の無力さに葛藤した経験があると思います。

癌に侵された場合、早期癌で発見され根治されるケースもありますが、進行癌で見つかる方も多いのです。進行癌で見つけられている方は、症状があっても仕事に追われていたので、こうなるまで我慢していたといったことをよく聞いてました。その頃考えていたのは、癌の手術を学ぶことも必要だけど、癌にならないように早期発見すれば良いじゃないか、という単純な発想でした。内視鏡や画像診断つまり予防医療です。そう考え開業することを決心し、いろいろなクリニックの見学をしていました。予防医療のクリニックといいましても外来での小手術程度はするつもりでしたので、その技術を学ぶために美容外科にも見学に行きました。そこで見たものはコンプレックスを心の奥深く持って悩み苦しんでいる方がこんなに多く、コンプレックスから開放されたときの患者さんの大変な喜びよう・・・それが私には新鮮でした。と同時に自分に向いている仕事であることを感じ取ったのです。

それからリッツ美容外科を開業するまではあっという間でした。大手美容外科で外科医の傍ら5年間修行したのちに大阪院院長となり、そこで院長を3年間勤めた頃に東京院院長の広比先生と知りあい意気投合し、リッツ美容外科をたちあげたのです。

以上、簡単ですが、自分の自己紹介です。文章は下手ですが、これからも治療のこと、プライベートなことを書かせていただきますのでお付き合いください。