メイン | バストのお話 »

私は恥ずかしながら貧乏性なんです。

大阪に出張で来たばかりのころは毎日ビジネスホテルに泊まってました。ですから毎日掃除が入り、新しい石鹸を2個ずつ置いていってくれます。これを貯め込んでいきますから、約半年くらいホテルで小さな石鹸が200個くらい集まりました。

私は石鹸の香りが大好きなので、お風呂のときには泡をたくさんたてて体を洗い一日の疲れを癒しております。去年、部屋を掃除してたら、その当時ホテルで集めた200個の石鹸が出てきました。これをどうしよう、と考えた結果できたのが、石鹸袋でした。

sekkenhukuro.jpg
(作り方)ホテルの小さな石鹸や使用途中の小さな石鹸と、新品石鹸3個、三角コーナーのネット二枚、輪ゴム二本です。まずネットに石鹸を入れます。これをきっちりと輪ゴムで止め、さらにもう一枚のネットで大きくくるみます。これでできあがり。この石鹸袋で身体を洗うと泡だらけになって幸せになれます。そのかわり、石鹸の消費量はものすごく増え不経済です。 

honeysekken.jpg
私が一番好きなのが、LUSHという店で販売されている[はちみつマーチ]という石鹸です。まず見た目がビックリ!本当のケーキのような形をしてます。また、甘い香りをプンプンさせてます。これには本物のはちみつが練りこんであるので、なめたら甘いのです。しかし、高いので、お客さんが来たときだけしか使えません。

ですから、石鹸袋に一個だけ混ぜて使うと、ほのかにはちみつの香りが楽しめ、ホテルの安い石鹸でも高級石鹸にすることができるのです。

この数年、日本では年金のことが問題になっています(本当に困ったものです)。ですから日本人の誰もが仕事を引退してからのことが不安な状態で生活しています。私もできることならば早目にリタイアして、沖縄やいわきの海の近くで当日食べる分くらいの魚を釣ったり、畑を耕したりしてゆっくりと過ごしたいな、などと考えてましたが、こうなると難しい状況になってきました。

私は一人で生活していた期間が長かったので、炊事洗濯が苦になりません。むしろ好きなほうです。しかし、高齢になって足腰が弱くなったり、病気になってしまったら身の回りのことができなくなってしまいます。こうなったら誰かに助けてもらわなければ生きていけません。こういった状態を[ 要介護 ]といいます。

17年前、母は私たち兄弟に

「私たち両親が死んで、あなたたち兄弟にお金を残すと喧嘩するかもしれないから、財産は残さないわよ」

と言い残し、私財をはたいて特別養護老人ホームを設立しました。財産などを期待していたわけではありませんでしたから、母の好きなようにしてもらって良いのですが、莫大な借金までしてはじめたので「そこまでするかー」と驚きました。現在、母は70歳をすぎているのに、まだまだ拡張計画を練っております。 

 
私「もう年なんだから、あまり無理すんなよ。人生まとめの時期に入っているんじゃないの?」

母「これは私の生きがいなの。これが無くなったら、私はボケて死んでしまっているわよ。あなたたちに迷惑かけているわけじゃないし、社会に貢献しているんだからやらせてちょうだい。」

私「はいはい、わかりました。」

母は人にまかせっきりにせず、毎日のように特別養護老人ホームで陣頭指揮をとっています。広い庭に花を植え、年に一度、施設での盛大な祭りなども企画して入所者の老人たちを楽しませています。祭りの一週間前から町中にポスターをはりまくって準備しているので、息子の私はちょっぴり恥ずかしい思いもしています。

特別養護老人ホームというのは簡単に言えば、[ 一人で身の回りのことができない介護の必要な方のための施設 ]です 。そこでかかる費用も、介護の程度にはよるらしいのですが、ほぼ年金の範囲内です。ですから、こういった施設があれ老後の不安も少し解消しますよね。そう考えると、贅沢さえしないで年金さえ払ってきちんと働いていれば老後は安心なはずです。rojinhome.jpg

そんなことを知ると、私も社会貢献しなければいけないなあ、なんて考えてしまいます。数年前の話ですが、母がタイミングよく

「老人ホームの洗濯機が壊れてしまって大変なのよ。また修理するくらいなら買い替えたいのよねー。150万円くらいする全自動の洗濯機があるんだけど、それがあったらみんな楽になるんだけどなあ」などと言ったので、つい

「じゃあオレが寄付するよ」と言ってしまいました。いざ、幸寿苑でその洗濯機を見て、私も社会貢献できるくらいには成長したんだなあ、などと感慨深く感激に浸りましたが、よく考えたらうちの洗濯機だって10年前のものなのでときどき止まってしまい、買い替えなければいけないものでした。ボロボロの洗濯機で洗濯しながら、社会貢献の大変さを知りました。

そば屋さんで注文をするとき、東京と大阪では「たぬき」と「きつね」の意味が違うので、大変ややこしいのです。。

東京の場合「たぬき」は天かすのことです。ですからたぬきそばにたぬきうどんがあります。また「きつね」はあげのことです。ですから 当然きつねそばときつねうどんがあります。

大阪の場合はこんなに簡単なものではありません。「たぬき」はあげいりそば 「きつね」はあげいりうどんなので、とてもややこしいのです。また、天かすのことは「ハイカラ」といって、ハイカラそばにハイカラうどんは存在します。

この違いの覚え方はマルちゃんのCMです。「あーかいきつねにみどりのたぬき♪」赤いきつねはあげいりうどんで、緑のたぬきは天ぷらそばですよね。 会社も関東の人と関西の人がこんがらないように名前を作ったのだと思います。

私が通ってた慈恵医大関係の人達ならば誰でも知っている「地下そば」(地下フロアにあるそば屋さんだからこういった愛称なのです) には忍者そばというものがあります。これは「きつね」と「たぬき」の両方をトッピングしたい、と考えたある先生が名づけたという逸話があるのですが、たぬきときつねの化かしあいという意味で忍者なのです。

大学病院に勤務すると必ず出張があり、地方の病院を転々とします。そしてその病院には必ず出前のそばやさんが出入りしているものです。誰が広めたのかは不明ですが、そのそばやさんの裏メニューには「忍者そば」「忍者うどん」というメニューが必ず追加されているのです。

私の究極のメニューのひとつ。地下そばの冷やし忍者そばとカツ丼。食べたーい!!!!

先日、ナガシマスパーランドに行ってきました。遊園地に行くのは15年前のディズニーランド以来です。絶叫マシンがおいてある遊園地にいたっては22年前に行った後楽園遊園地以来です。

私は遊園地でほのぼのとした時間を費やすのは楽しいと感じるのですが、絶叫マシンは「楽しい」と感じたことはありません。どちらかというと「拷問」です。どうしてあんな高いところから落とされなければいけないのか理解できません。さらに料金を支払うなんてありえないことです。

しかし友人がどうしても乗りたがってますし、いちいち「オレはきらいなんだ」ということを説明するのも面倒ですから、雰囲気的にも「ひとつぐらいつきあってやるか」と思い、乗ることにしました。

kanban.jpg
心の中では「いやだなあ」と思いながら、絶叫マシンに乗ろうとすると、入り口に

①130cm以下の方乗車をお断りします。 「ふーん。子供だと振り落とされて危ないんだろうなあ」

②54才以上の方の乗車をお断りします。  プツン!!頭の血管が切れました。「なにー!!オレは49歳でクリアーしてるけど、あと5年経ったら、危険だというのか!ナメんなよ。乗ってやろうじゃねえか。」

若干、興奮しながら階段を昇り、絶叫マシンに乗り込みました。さあスタートです。カタンカタンとマシンは高いほうへ向かいます。先ほどまで怒ってましたが、意気消沈気味です。頂上につきました。 ガアー!!!落ちていきます!一回転します!遠心力がかかります!「ヒエエエエエー」。・・・・・・・・・・・・・・・・ガタンッ!終点です。思い切り脱力感とともに、足の力は抜け、目が回りました。やはり乗るんじゃなかった。先ほどまで怒っていたナガシマスパーランドさんにごめんなさい、と②48才以上の方の乗車を固く禁じます とあらたに提案したいくらいでした。

しかしフリーパス券を買ってしまったので、これだけでは大損です。次は大好きな観覧車に乗ることにしました。今まで見たこともない高さの観覧車ですから、さぞかし景色がいいのだろうと考え、乗り込んで一息つきました。少しずつ上っていきます。天気がよかったので海の景色が最高です。「ああ、来て良かった。」と思いきや、これは高すぎです!!三重県から大阪府が見える勢いです。足はすくみ、手すりをぐっと握りました。手からは冷や汗をかいてます。心の中で「早く下がれー」と祈りつつ、観覧車が頂点に到着したとき、カタンと音がしたかと思ったら、動かなくなってしまいました。「ヤバイ!故障だ!」死をも覚悟しました。その時です。「ただいま、体の御不自由な方の乗車をしております。故障ではありませんので、そのままお待ちください。」とアナウンスがありました。安心しました。やっとの思いで下に到着しましたが、「もう絶対に乗ってやらんぞ!」と誓いました。

ホワイトサイクロンには感心しました。全て木でできている手作りのジェットコースターです。これは後世に伝えるべき芸術品です。さすがに怖くて乗ることはできませんでしたが、見るだけでも価値のあるものです。是非行って見てください。

white.jpg
このふたつの乗り物で全身脱力感です。しかしフリーパスを買ってしまったので、あとはおばけ屋敷や、ゴーカートに乗って、遊園地を後にしました。その後、ナガシマスパーランドの温泉でゆったりと湯船につかって帰りました。あーつかれた。

私たちが医師になりたての頃の話です。

医師免許に合格すると、2年間は研修医という立場になって外科系の各科をローテートします。希望科は外科、整形外科、形成外科、産婦人科でした。外科の先輩たちはとても豪快な楽しい先生ばかりで圧倒されます。その中に尊敬できる先生を見つけたりして、ほぼ心の中で「やはり外科かなあ」と決めてました。しかし、将来のことを考えると、開業するには外科では不可能だ、ということに気づいてました。そんなとき研修期間が残り一週間というところで、教授の手術につく機会があったのです。手術中に

「君は研修医だね。」

「はい!」

「外科はやりがいもあるし、楽しいだろう。」

「はい!」

1年先輩でも神様です。教授に対して、普通に話しなどできませんでした。

その晩、忘年会がありました。外科の忘年会は大騒ぎです。皆酔っ払い 楽しく過ごしていたところ、教授が時間遅れで入ってきました。部屋の空気は一瞬にして変化しました。教授は席を移動しながら、いろいろな先生方と談笑して回っています。私たちのグループにもいらっしゃいました。

「おお、君は志賀くんだね」

「はい。(うわあ!名前を覚えてくれている。感激!ドキドキ。)」

「今日の手術では、よく手が動いていたねえ(要するに手術中に気がきくということです)。外科医のセンスを持っているようだね!」

「本当ですか!ありがとうございます。」

「君は外科に入局するのかね。」

「はい。そのつもりです。よろしくおねがいします。」

ということで、この言葉で私の歴史が変わりました。翌日、先輩にそのことを自慢気に話すと、

「志賀、お前の夢を壊すわけではないけど、みんなそう言われてるんだぞ。それに昨晩の教授は呑みすぎて、泥酔してたから、帰りにオレのコートを着て帰ったんだぞ。お前に言ったことなんて、たぶん記憶にないよ。まあ自分の将来は自分で決めろよ。」

「はあ。(がっかり)」

結局、外科に入局して10年間頑張りましたが、現在に至るのでございます。

外来をしていると、「眠れないので睡眠薬が欲しいのですが。」という訴えの患者さんによく出会います。

私も長いこと不眠症でいるので気持ちはよくわかります。体が疲れていても、眠ろうとすると眠れないのです。ですから翌日が手術があるのに眠れない夜は 睡眠薬を少しだけ内服して、できるだけ体を休めるようにしてます。しかし、翌日が休みや遅い出勤のときなどは、本を読んだりDVDを観たりするので、かなり遅くまで起きています。むしろ寝るのが惜しいといった感じで過ごしております。私の生活は休みが少ないので、暇さえあれば寝ようとしますし、休みがあれば 思いきり遊ぶ不規則な生活なのです。

不眠症の患者さんにはいろいろな質問をします。「お仕事をなさっているのですか?」。「いいえ。専業主婦です。」「朝早く起きる理由があるのですか。」「いいえ。主人も定年でゆっくりしてますし、子供も結婚してしまいましたし、早く起きる必要はないのです。」「私もそうなのですが、寝ようとすると寝れないもので、起きようとしていると自然に眠くなるものですよ。お薬は出しておきますが、無理に寝ようとしなくても良いのではないですか?」「そうですね。やってみます。」

私が外科医だった時代、インフォームドコンセントされた癌の末期の方でも睡眠薬を内服していていました。私の心の中では「死に対する不安や恐怖感はあると思うけど、もう限られた命なのだから、生前にやらなきゃいけないことはないのかなあ。」と不思議に感じておりました。私は今後、30年は生きようと考えてます。やりたいことがありすぎて時間が足りません。私もいずれ死にますが、死を宣告されたら痛みのコントロールだけして、毎晩徹夜してでも人生の整理をしたいと考えてます。ですから突然死だけは困るのです。皆さんも人生は長くないのだから、眠れないのでしたら、眠くなるまで起きていたらどうでしょうか。

「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」は映画化されたり、配役を変えテレビで何度も放送されるほど有名で、良い話とされてます。しかし現代で忠臣蔵が起きたら大変なことです。殺人事件で逮捕されてしまいます。

仇(あだ)討ちは親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みをはらすことで、江戸時代、武士階級で慣習として公認されていました。人を殺しても番所(役所)に届け「仇討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、勇気ある行動と賞賛されていました。

あだ討ち禁止の最初の法律が1873(明治6年)年2月に発令された復讐禁止令です。これによって犯罪は個人に代わって国や地域社会という司法が罰するという国家的公刑罰権が確率されたのです。

私は殺人事件をみると、とても悲しい気持ちになります。殺人事件には、被害者と加害者が必ず存在するからです。ですからそんな事件のニュースがあると、両方の立場になって考えます。

もし、悪意や無差別に自分の子供が殺されたら、犯人を自分が仇討ちしても死刑にしても自分の心は晴れないと思いますし、むなしさが残るだけです。病気で死ぬというのとは意味が違います。突然、愛する子供がいなくなってしまう悲しみなど、私の想像を超えたものなんだと思います。

もし、自分の子供が他人を殺してしまったら 子供の死刑を受け入れられるでしょうか。さまざまな状況にもよりますが、更正できるものならさせたい、と考えてしまうのでしょう。しかし、殺された相手の悲しみを考えたら そんなことでは済まないはずです。子供がしたことの重大さを認めさせ、司法に委ねるしかないのでしょう。たぶん子供の育て方を反省し、一生悔やんで生きていかなければならないのでしょう。

最近、死刑廃止論というものが言われております。確かに死刑が生み出すものは少ないとは思います。だからといって死刑を廃止する、というのは間違っていると思います。やはり命には命で償うというのは大前提として、これによる抑制効果を期待しなければ事件は減らないはずです。

命は神様に与えられたものです。ひとつの命を育てるには周囲の大変な苦労と努力を伴うものです。その過程の思い出や愛を一瞬にして失ったら、周囲の人達だって生きる望みを失うはずです。

人気取りのために死刑廃止論を唱えている政治家は、そんなことよりも犯罪の起きないような世の中を作ることを考えていただきたいものです。

これから裁判員制度が始まります。どんな事件がどのように裁かれるかを見守っていかなければいけませんね。 

私は大腸過敏症です。ですから、食事を取ると20分以内に便意を感じてしまいます。

消化器外科で外来をしていたときに、こういった患者さんによく出会いました。私を含めて大腸過敏症の方は 通勤途中のどこにトイレがあるかを把握しながら生活してますし、食事内容にも注意しています。ですから私が朝食をとる場合は、食後に20分以上の時間があるときだけです。そうしないと、通勤の途中でトイレに行かなければならないからです。

その日は朝食を摂らずに出勤しました。病院に着くと、一日の予定を検討しながらアイスコーヒーで一服します。その日は胃癌の手術でしたから、4時間くらいかかる予定でした。手術中に抜けるわけにはいきませんから、そんなときは朝食をしっかりと摂って、手術にのぞみます。トーストにサラダ、アイスコーヒーを飲んで、予定通り便意を感じたのでトイレに行きました。私は、職業柄、便を観察する癖があります。血液の混入や太さ、未消化の状態を確認するのです。その日は、前日に酒を飲まなかったので、色合いの良く香り豊かな便を大量に排出しました(飲酒の翌日は下痢しやすいのです)。観察後、健康具合に大満足して水を流そうとすると、

「あれ!水がでない!!!!!!さらにトイレットペーパーがない!!!」

そのとき脳裏に浮かんだのは、「先週は確か、このトイレは工事中だったぞ。けど、ドアは空いてたから工事は終わったのではなかったのか??」

トイレットペーパーもないのでオシリも拭いてません。ズボンをはくこともできず、半端な状態でおそるおそるトイレの入り口を見ると、

「ガーン!!!工事中だああああ!!!!」

私は悩みました。手術の時間は迫っています。だからといってこのままでは逃げられません。悩んだ結果、他のトイレに行って、オシリを拭き、きちんとズボンをはいて、トイレットペーパーを握り締め、工事中のトイレにもどってきました。そのトイレットペーパーを排出物の上に置いて隠し、便器の奥におしこみました。それと「ごめんなさい」のメモを残して出ていきました。

手術前に先輩が「志賀、顔色悪いけどどうかしたのか?」

さすが医者です。見抜かれました。「いや、昨晩飲みすぎたんですかねえ。いたって元気ですよ。」

手術は問題なく成功しました。手術後、恐る恐るトイレの入り口を見てみると、ドアに「使用厳禁」と大きな紙で張り紙がしてあり、太いガムテープでドアは閉鎖されてました。まるでトイレ内で殺人事件でもあったような雰囲気でした。

心の中で「犯人はわたしです。ごめんなさい(合掌)。」と思いながらその前を通りすぎました。

2005年にその女の子はリッツ大阪院に来院しました。年齢は22歳です。スタイルは良く顔は小さいのですが、少しだけ頬骨が出ており、エラも出ているのでゴツゴツした印象でした。目は一重のスッキリした顔立ちです。

「私、綺麗になってモデルになりたいんです。」

「うーん。素質はあるよねー。どの部分を直したいというのはありますか?」

「全部!浜崎あゆみみたいになりたいんです。」

「そうかあ。ちょっと雰囲気は違うけど、そうなるとまずは目かなあ。」

数日後に瞳拡大(軽度の眼瞼下垂手術)と二重の手術をしました。目はかなりパッチリとして、全体的に明るい印象になりました。瞳は浜崎あゆみさんのように輝いてます。

「今度は輪郭を直したいんです。」

それから半年に一度くらい、手術を受けに来院します。その都度、女の子は近況報告をしてくれます。ある日

「夜の仕事をはじめてみたんやけど、指名が一番になってん。先生のおかげでモテモテやで(笑顔)。」

「へえ、すごいな。元々、素質があったんじゃない?」

次に来たときは

「先生!雑誌デビューしたで。見てなあ。」

本屋さんで周囲の目を気にしながら、そのファッション誌を立ち読みしました(ファッション誌を50歳近い男が見ていたら変態です)。それは最近の女の子が最も憧れている雑誌で、その読者モデルとして巻頭に写っておりました。

「え、うそ!かわいい!」

化粧も髪型もプロが触っっているので別人のように輝いています。

それからその女の子が来院する度に、少し緊張するようになりました。けど、その女の子の当初の予定だった浜崎あゆみさんとは違い、私の好きな小林真央さんに似てきた感じを受けるのは、私の好みのタイプのように手術してしまったということなのでしょうか。

今後の活躍を楽しみにしております。

今年の夏、兄が享年52才で他界しました。

私の尊敬する医師であり、生まれたときからの目標でしたので、この2か月間、私の心は糸のない凧のように彷徨っておりました。

しかし、そんな深い悲しみの中、とても嬉しかったことがありました。兄の通夜と告別式に1500人もの人に来ていただき、盛大に行なわれたことでした。たったひとつの魂を1500もの人に見送っていただいたのです。そんな兄は幸せ者でした。リッツ美容外科の各院からも花や電報が届き、東京院の広比院長夫婦、横浜院の阿部院長夫婦には、わざわざ東京から来ていただきました。大勢の前でしたし、精神的に衰弱しているときでしたので、そんなときに親しい人達に会い、思わず涙が溢れてしまいました。

しかし兄の四十九日も過ぎたので、いつまでもフラフラと彷徨っているわけにはいきません。私は一大決心をしました。兄が得意とする、変形性膝関節症やリウマチによる膝関節症に対する人工膝関節の手術をマスターすることです。

兄の診察していた大勢の患者さんが、いらっしゃいます。これから手術が予定されていた患者さんたちのために、私は早速行動に移しました。某大学病院の整形外科で手術を教えてもらうことにしたのです。スタートは研修医と同じです。朝早くからのカンファレンスにはじまり、手術や外来での勉強です。はじめてみると、医師になりたてのころのフレッシュな気持ちが蘇ってきました。新しい病気のことは何を聞いても新鮮ですし、興味深々です。手術の部位こそ異なりますが、骨を切ったり削ったりするのは整形外科も美容外科でも同じです。今後、美容外科での自分の技術にも幅が広がりそうな予感がします。

ですから、最近は生きていく目標を定め、元気になりました。これからまた、ブログにも取組んでいこうと思います。お休みしている間、メールで励ましていただいた皆様、ありがとうございました。

saidan.jpg

私の小さい頃はいつも兄の後をついていくような甘えん坊だったらしいです。幼稚園の年少のときでも2つ年上の兄の教室に入っていって一緒に過ごしてました。これを先生達もあきらめて黙認してくれていたそうです。

私が小中学生のころ、周囲の推薦もあったのですが、生徒会の役員に立候補することが多くありました。中学校に入学したての秋にも生徒会の会計監査役に立候補しました。私の中学校の出身者で生徒会長をした人には中村敦夫(木枯らし門次郎)さんもおり、由緒ある生徒会でした。対立候補は2年生と3年生数名です。半年前に入学した私など勝てるはずもありません。今でこそブログなど書いてますが、文章を書くのが苦手でしたから困りました。兄に

私「明日の立会演説会の演説文考えてよー」

兄はニヤリと笑って

「いいよ。けど文章は当日まであけるなよ。それと書いてあることをそのまま読めよ。」

私「わかった。ありがとう。」

演説会の当日、体育館の壇上に登り、順番をまちます。その当時 生徒会副会長だった兄は私のほうをチラチラと見ております。順番が近づいてきました。いよいよと思い演説文を開きました。「えっ!これを読むの!うそ!」私は驚きました。兄もなにげにニヤニヤと笑っているようです。仕方ありません。約束通り読みました。

「私は しがひろおの弟 しがよしあきです!・・・・」

全校生徒1200人+先生達の大爆笑と拍手喝采の渦に巻き込まれました。私の顔も真っ赤です。黙々とつづきを読み終えて壇上から降りました。「くそぉ。兄貴に騙された!」

選挙の開票は当日でした。学校から帰った兄に文句を言おうとしたら

兄「おめでとう!!」

生徒会会計監査 当選 志賀由章(1年)787票 小沼絵里(仮名 3年)289票・・・・でした。

私の兄はどこへいっても人気者です。イケメンな訳でもなくスポーツができる訳でもありません。小さいころから あんなふうになりたいなあ、と思いながらも真似できない人間なのです。

兄が中学を卒業してからは 私の人気だけで当選することもないので、立候補することはありませんでした。

開業してからも人気者です。患者さんが朝の6時から弁当を持ってクリニックの前に並んでます。私が医師になって一番尊敬できた医師でした。

先日、福島の実家に帰りました。兄のクリニックを手伝っていたら、初老の上品そうなご婦人が注射を受けながら

「よしあきちゃん、ひさしぶりねえ」

「え!どちらさまでしたか。すいません。最近、物忘れがひどくはっきりとした記憶がないのです。でも会った事があることは記憶にあります。」

「無理もないわ。40年ぶりですもの。変わってないわねえ。私、幼稚園のときに同級だったタエコ(仮名)の母よ。」

「ええー!!!そうだ、そうです。思い出しました。お久しぶりです。」

ビックリしました。私が5歳のときの 初恋の女の子のおかあさんです。今でも幼稚園時代のことを思い出すときは 必ずタエコちゃんのことを思い出してました。タエコちゃんは 4歳のときから目鼻立ちがはっきりしていてお母さんのように上品でした。さらに手足は長く、その当時の子供の中では際立ってましたから、当然みんなの憧れの的です。小学校は地区の違いで別の学校になってしまいましたが タエコちゃんの学校の友人に彼女の様子は聞いておりました。スポーツが得意で中学のときはソフトボールをしていたこと。高校は地元に進学せず東京に行ってしまったことなど、彼女のことはたくさん知ってました。さすがに私も大学に進学してからは思い出すことも少なくなりましたが、その当時タエコちゃんの友人から手を回して手にいれた一枚の写真だけは 今でも家のどこかにあるはずです。

母「今日も私を迎えに来てくれるのよ」

私「え!そうなんですか!会いたいなあ。」

母「じゃあ。後で寄るわね」

言ってから後悔しました。医師になってからは誰とでも話せるようになりましたが、私は過度の緊張症です。学会の発表が嫌いなのも、人前に出ると緊張で手足は震え、言葉も震えてしまうからです。再開の時間が来るのを緊張して待ちました。

母「よしあき先生いらっしゃる?」

私「はーい(ドキドキ)。」

タエコ「ひさしぶりー!よしあきちゃん!。こんにちわ。」

私「あ!タエコさんですか。お久しぶりです。相変わらずお綺麗ですねー。外人さんみたい(オレは何を言ってるんだ。バカバカ)。私なんてこんなになってしまいました(全然うけないじゃないかーいわなきゃよかった。はぁ)。」

昔話で盛り上がりました。やっと緊張もとれたころに

タエコ「私の幼稚園の思い出なんてよしあきちゃんのことしかなかったわよ。」

私「えー!そうだったんですか。両思いだったんですね(いい年こいて何を言ってるんだ!バカバカ)。私もですよ。」

私は49歳なので彼女も同じなはずです。現在、彼女はダンスの先生をしているらしく美しいスタイルと相変わらずの綺麗な笑顔でした。不思議なことに今まで彼女を思い出すときは、昔に手に入れたあの一枚の写真の笑顔でしたが、再会してからは頭の中の記憶が現在のタエコさんに変わって前の記憶が消えてしまったのが不思議でした。

今から30年前、私はサーファーでした(笑)。

日曜日になると、朝早くから友人の車にボードを積んで湘南の辻堂海岸に向かいます。辻堂に着いたら 歩道橋に登ってどこの海岸に波があるかをチェックし 波のある海岸に向かいます。波がたってないときは海沿いのR134を走って波のあるポイントまで車で移動します。

台風が通り過ぎた翌日はきれいな高い波がたつのを知ってましたから、犬を連れて一人で湘南まで行きました。その日、歩道橋から波がたっていいたのは 茅ヶ崎ホテルの前でした。茅ヶ崎ホテルの駐車場に 犬を入れたまま車を止め 海へ向かいました。波は高かったのですが 風の影響できれいな波ではありません。ただ、ボードに乗っているだけでも幸せなので 波待ちをしながらボーっとしていました。

サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」を口ずさみながら波待ちです。「海岸で若い二人が恋をする物語♪・・・・・・エボシ岩が遠くに見える♪ 涙あふれ・・・」と後ろを振り向くと 「うわあ!!!!!」エボシ岩がすぐそこにあります!!やばい!潮の流れに流されたんだ!さすがにそのときは死を覚悟しました。前日、ウインドサーフィンをしていた大学生が一晩中漂流してニュースになっていたばかりでした。海岸からエボシ岩までは1.5kmくらいです。大体1.2kmくらいは流されていたようです。

両親のことや兄弟のことを思い出しました。車の中の犬も死んでしまう!!パニックの中、私は冷静になりました。「ようし!オレは生きるぞ!!」一生懸命パドリングしました。潮の流れに逆行してますから全然進みません。でかい声で気合いを入れ、約2時間はかかったでしょうか。やっと海岸にたどりついたのです。

今でも「チャコの海岸物語」を聞くと、その時のことを思い出して背筋がぞっとします。死まで覚悟した「オレの海岸物語」です。

naminori.jpg
この写真の左側が私です。波は小さいけどきれいに乗れてるでしょ。26年前、千葉の海岸で撮りました。

フードマイレージとは、簡単に言えば「食べ物がどれぐらいの距離を運ばれてきたか」を示し、食べ物を運ぶにあたって二酸化炭素がどれだけ排出されたかを計算し、環境汚染にどれだけ影響するかを数字で表すものです。日本はフードマイレージが世界一高い国です。つまり食料を自給率が低く、他の国からの食料依存度が高いことを示しております。

先日、福島に帰ったときに野菜や果物をたくさん買いました。農家直営の野菜は大阪のスーパーの5分の1くらいの値段で売っています。先日帰郷したときもトマトを3箱(60個)で1000円、スイカを2個で2000円、桃を1箱(15個)2000円で買いました。トマトなんて1個17円くらいですから、ペットボトルの水よりも安い値段なのです。うちのスタッフに空港で買ったお菓子をおみやげにするよりも、新鮮な野菜にしたほうが喜ばれると思い、張りきって買いました。これをかついでチェックインしようとしたところ、係員の方が重量を測定してました。

「すいません。業者の方でしょうか。」

「(だれがやねん!オレが野菜屋のおっちゃんにみえるかよ!怒!)いえ。どうかしましたか。」

「手荷物以外のお荷物は15kgまで無料なのですが、お客さまの荷物は27kgありますから、1kgにつき400円の追加料金が必要になってしまいます。」

「えー!そうなんですか?知りませんでした。」

頭の中で計算しました。超過分12kg×400=4800円!野菜や果物の値段が5000円ですから、なんと倍の値段になってしまいます。作戦を練りました。

「手荷物で機内に持って入ればよいのですか?」

「はい、それなら結構です。ですが手荷物はお一人様10kgまでとなっております。」

「でしたら、この9kgの桃を手荷物にしてもよろしいですか?」

「結構ですよ(嘲笑)。そうなりますと超過分が3kgになりますから1200円になります。」

「はい」

私は9kgの桃を肩にかついで機内に乗り込みました。福島の桃の甘い香りが機内に漂っていたのは言うまでもありません。周囲のお客さんは私のことを果物屋さんのおっちゃんだと思ったかもしれません(恥)。心の中で「どちらにしてもフードマイレージには関係ないじゃないか」とブツブツつぶやいてました。

田舎道を車で走っていると 5~6件の集落を見かけます。家の周囲に田んぼや畑があると 「農家なんだな。」で解決しますが、田んぼや畑がないのに家があったりすると、「なぜこんな不便な場所に住むのだろう?病気になったら大変だよなあ。子供の通学はどうするのかなあ。」などと考え、次第に妄想の世界に入ってしまいます。

戦国時代 豊臣秀吉は天下を統一するために全国を駆け巡ってました。秀吉の命令に背いた大名とは戦(いくさ)になります。戦になるといろいろなことが起きます。戦の途中で戦死したり、怪我をしたりすることもあるでしょう。そうなったら戦から引き上げることもできませんし、中には逃げ出す方もいるはずです。怪我をしている武士が倒れていたら、親切な地元の農家の方が家にかくまってくれたりするかもしれません。

武士「ん?ここはどこじゃ?」

老女「お武家さまは 関が原の戦いで倒れておったのを 娘のサチが連れてきて看病したのじゃ。お武家さまは もう一週間も寝てましたぞ。」

武士「サチと申すか。すまんのう。いたた!」

サチ「お武家さま!まだ傷が治っておりませぬゆえ、まだお休みになっててください」

武士「ふう。ご主人はおらぬのか、挨拶したいのじゃが。」

老女「主人は先だっての戦で死んでしまいました。見てのとおり、今は私とサチが二人で田んぼや畑をして食いつないでいるありさまです。」

武士「そうか!大変じゃのう。わしが元気になったらお礼に畑仕事を手伝って進ぜよう。」

サチ「本当ですか!ありがとうございます。」

・・・・・・その後、武士はサチと恋仲になり、武士は刀をクワに持ち替え、助けてくれたサチとその土地で子供を4人もうけて仲良く暮らしたのかもしれません。もしかしたら、あの集落はサチの子供たちなのかもしれないなあ。なんて妄想している間に「院長、着きましたよ」「ハッ!あ・ありがとう」目的地に到着してました。

mousou1.jpg

私たちが小学校のころはソフトボールが盛んでした。私も小学校4年からは上級生に混じって毎日練習してました。そのころは町内対抗戦でしたから、私たちの町の公園でも毎日誰かがソフトボールをしてました。

4年生のころは補欠です。5年生になってからはレギュラーになりました(町内に4~6年生は20人くらいしかいませんから大したことではありません)。すばしっこく、スポーツが得意だった私はピッチャーに選ばれました。いよいよソフトボール大会の日 注目度は低く 初戦に勝てば上出来くらいのチームでした。それが同級生や先輩のいる優勝候補の強敵チームを次々と倒し 決勝戦まで進出してしまいました。 

決勝戦は4年生以上の生徒500人以上が見ている中での試合です。私は頭の中が真っ白です。マウンドからキャッチャーまでの距離も いつもよりはるかに遠くに見えてました。大好きだった女の子も見てます。そんな中で投げてますから なかなかストライクが入りません。さらにさっきまで仲良かった野球仲間が ねたみもあってか「チビピッチャー!!ヤーイ!!」などとヤジをとばしてきます(涙)。6年生が「変わろうか?」と言ってくれましたが、「大丈夫です。投げます。」と、投げ続けました。結果は0-1で負け、準優勝でした。けど、5年生で投げぬいた私は、翌日の朝礼で優秀選手賞の賞状を頂き 大きな満足と自信を得ることができました。この幼少時の栄光はその後の人生の自信につながっていったのです。

今でもときどき夢を見ます。王監督がドラフトでなぜか私を6位で指名するのです。さらに新聞記者もやってきて取材を受けます。王監督は「一緒にがんばろうよ!」と言ってくれます。けど、クリニックを開業しているので悩んでしまうのです。「どうしよう。プロになりたいけど、明日もオペがあるしなあ。どうしよう。」。そこで目が覚めます。(40年前の小さな栄光をどこまで引っ張るんだよって感じでしょ。笑)

前列向かって右端が私です。凛々しい子供でしょ。baseball.jpg

競馬をする人間は馬肉を食べてはいけません。ツキが落ちるからです。

ある時、熊本の友人の家に遊びに行きました。熊本といえば阿蘇山と馬肉が有名です。夜、友人と町に繰り出しました。どこの居酒屋にも馬刺しがあります。私はかたくなに拒み、馬刺しは一切食べませんでした。

翌日、レンタカーを借りて阿蘇山にドライブに行きました。頂上近くに広い牧場があって、百頭以上の馬が放牧されております。おとなしいので近づいてもまったく動じません。さらに馬の胴体横に店の名前が書いてあります。うーん。これは私が競馬場で見たレース馬とは違う生き物だ。馬というより豚さんや牛さんに近い、むしろ家畜だ!という結論に達しました。その晩、馬刺しを食べまくったのは言うまでもありません。おいしかったあ。

そのせいか、競馬をはじめた年の有馬記念の大勝負には勝ったものの、その後は当たらなくなりました。昨年も大赤字でした。

house.jpg

小学校のころ、学校の帰り道の途中に秘密基地を作っておりました。そこには、仲間が漫画の本や釣り道具、虫取り網やおもちゃなどを持ち寄って隠しておくのです。中学にもなると制服を着るので行けなくなりますから、次の世代の子供たちに明け渡します。

私は今でも家の裏にテントを張って秘密基地にしております。ここは私の憩いの場所です。雨の日でも、仲間とバイクの修理やバーベキューをしたり、酒を飲んだりすることができます。日差しの強い夏はマメやアズキも涼んでいます。家庭菜園をするためのクワやスコップも置いたり、苗作りはここでしてます。

朝起きると、アイスコーヒーを持ってここに来て、苗の状況を確認しながら目を覚まします。。落ち着いたら庭の水撒きをして 出勤するのです。

2月の雪でテントの屋根が雪の重みに耐えかねて破れてしまいました。やはり9000円のテントは何年も張りっぱなしにはできないのですね。以前は青だったので、今回は黄色にしてより明るい雰囲気を作ってみました。 

tento.jpg

atsuhime1.jpg
今年の大河ドラマ「篤姫」は近年稀に見る名作です。私は大河ドラマの中では「利家とまつ」以来の名作だと思います。宮崎あおいさんの熱演も素晴らしいうえに、父親役の長塚京三さん、母親役の樋口可南子さん、島津斉彬役の高橋英樹さんの名演技には感激します。

篤姫は鹿児島に生まれ、13代将軍 徳川家定と政略結婚させられます。しかし家定は数年で亡くなったので、未亡人として大奥に残りました。14代将軍 徳川家茂には天皇家から和宮が降嫁しました。和宮は有栖川親王と婚約していたのに公武合体(天皇家と武士を仲良くさせる)のために、婚約破棄させられ、家茂と政略結婚させられたのです。しかし家茂も数年で死去したため、和宮も未亡人となり大奥に残りました。その後15代将軍 徳川慶喜へと移り変わっていくのです。

大政奉還後は徳川政権を倒すために薩長(薩摩と長州)連合が天皇家を味方に引き入れ、官軍として江戸城を攻撃することになりました。

atsuhime2.jpg
天皇家が味方しているのが官軍(正義)、それに反抗するものを賊軍(悪)といいます。ですから、徳川家は和宮を嫁に出していることもあり官軍だったのですが、天皇家(それも婚約者だった有栖川親王です)が薩長側に味方することになったので、徳川家の立場は賊軍となってしまいました。篤姫や和宮は政治的に利用され、最後は実家に見捨てられたのです。未亡人となった篤姫、和宮は実家に帰ることもできたのでしょうが、徳川家の人間として無血開場(戦をせずに江戸城を明け渡すこと)へと奔走し、あわやというところで江戸城は攻撃されなかったのです。もし。彼女たちがいなかったら、西郷隆盛は江戸城に攻め込んだのかもしれません。

徳川幕府が崩壊した後も篤姫は生涯、鹿児島に帰ることも援助をうけることもなく、波乱の時代を生きぬいたのです。また数年しか結婚生活をしなかった和宮も 死後は家茂の墓の隣に入ったのです。

*幕末といえば坂本龍馬です。そんなに多くは出ないと思いますが、玉木宏さんが演じる予定です。また堀北真希さんの和宮も楽しみです。

医師免許の試験を取ると、2年間は研修医になります。学生のときは大学で勉強しても、手術や注射の経験はさせてもらえないので研修医になってはじめて注射したりするのです。

先輩医師に教わりながらはじめて静脈注射をしたときは感激したのを覚えております。それが上手にできるようになると、病棟の患者さんに朝の点滴に回ります。血管の出にくい人には大変苦労します。女性部屋は特に苦労しました。一度刺すのに失敗したりすると「下手な先生」のレッテルを貼られてしまいます。そうなると 点滴に回っても、「あの先生はイヤ」なんて看護師さんに告げ口されてしまうのです。

そういったことを乗り越えていくと、次は手術の助手です。大きな手術や小さな手術のお手伝いをさせてもらうのです。それが上手にできるようになると、やっと手術をさせてもらいます。手術部屋には今日の手術の予定表が貼ってあります。私のはじめての手術は「アテローム」でした。手術時間は30分の簡単な手術とはいえ、さまざまな科の教授に並んで、手術の予定表の術者のところに自分の名前をみつけたときジーンとしました。なんかチョッピリだけ社会に貢献している人間になれた気分でした。

そんなことを2年間やって生きていくのです。問題は給料が月に2万円ということです。確かに何もできないのですが、同時に入った若い看護師は初任給が17万円です。看護師さんと このことについて話すと、

「先生たちは将来たくさんもらえるでしょ」

そういう問題ではありません!研修医がはじまるころのある日、父が「これ持ってけ」。と封筒を渡してくれました。なんと100万円です。「おまえらは、当分安月給なんだから、これで食いつなげ」「うん、ありがとう(涙)」。私にはこのお金があったので、少しずつ使って食いつなぎました。、そして、お金がなくなってきた10月頃に、やっと当直のバイトを割り当てられたのです。

 一晩3万円の当直です。何か問題が起きたら大変なので 山ほどの本を抱えて病院に行ったものです。手帳にも 先輩から聞いたさまざまなマニュアルを書き込み、眠れない夜を過ごしたのを覚えてます。お金を頂くことの大切さを知り、当直代として頂いた3万円は大切に使いました。

私にとってバイクは人生の中で切り離せないものです。

風をきって走っている気持ち良さはフェラーリやポルシェにも味わえない感覚だと思います。しかしバイクはスピードを出したら大変に危険な乗り物ですから、私は原付程度のスピードでしか走りませんが、それで充分なのです。

バイク好きにはいろいろな楽しみ方があります。スピードやスリルが好きな方。ファッションの一部として乗る方。スポーツとして乗る方。おもちゃのように改造していじくりまわす方。さまざまです。

私にとってヨンフォアは20歳のときに生まれてはじめて買った乗り物ですし、さまざまな思い出がつまっているので、これに乗っているときの自分は1970年代にタイムスリップします。人生の疲れや悲しみなんて一気に吹き飛ばしてくれます。

以前、チェッカーズの高杢さんがガンに侵されたことがわかったとき「自分が癌であることを知ったとき、好きなバイクに乗って逃げ出したかった」と記者会見で語ってましたが、とても気持ちが理解できました。術後元気になり心から祝福しております。

こんなに夢中にさせる乗り物なのですから、子供たちが乗りたがるのはあたりまえです。私たちも同じバイクのオーナーが集まってツーリングなどしますし、その時の爽快感は最高です。ただ暴走族のように、他の走行を妨害したりしながら乗るのは間違ってますよね。子供にバイクの良さを教えてよいのか悩む今日このごろです。

この写真のヨンフォアは ほとんど原型をとどめてません。改造に改造を重ね、こんな形になりました。1980年当時よりも光ってます。

four2.jpg

今年はじまったドラマのの中で「ROOKIES」が熱いです。

まず、登場人物の名前がメチャクチャなんです。安仁屋に新庄、関川、御子柴、桧山、岡田、江夏といった阪神ファンならおなじみの選手の名前が使われています。主役は監督役の川藤こと佐藤隆太さん。いままでずっと脇役でいい味を出しているな、と思って観ていたら とうとう主役に抜擢されました。もうひとつメチャクチャなのは生徒役の年齢です。先生役の佐藤隆太さんが28才なのに、生徒役の高岡蒼甫さんが26才。上地裕輔さんは先生より年上の29才なんです。真面目なドラマだったらありえないキャスティングです。

私の好きな映画のひとつに「パッチギ」がありますが、映画で高岡蒼甫さん、桐谷健太さん、尾上寛之さんが不良役で名演技をしてたので、それとダブってさらにおもしろいのです。

撮影現場が二子玉川というのも最高です。私が東京に住んでいた頃には、多摩川沿いをバイクで走り回ってたので、青春時代がダブるのです。

生徒役で出ている市原隼人さんは、とてもかっこいいですね。ドラマの中では怖い顔をみせてますが、笑顔になると ものすごいやさしそうな顔に変身します。どんな目の構造なのでしょう?とても魅力的です。

さらに良いのがBGMで流れているGReeeeNの「キセキ」です。このジャンルのCDは滅多に買わないのですが、買ってしまいました。GReeeeNのメンバーを見たことがないためなのか、市原隼人くんが歌っているように聞こえてしまうのは私だけでしょうか。

このメチャクチャな設定のドラマなのに、最後の10分は、毎回 感動して泣いてしまうのがくやしいのです。カウンセリングの合間などに録画を見てると、やはり感動して涙目になってしまいます。私が涙目でカウンセリングに来たら、ROOKIESを見てたと思ってご容赦ください。けど、これを見た後は心が優しくなってますから カウンセリングは より安心です。

ROOKIES2.jpg

昨年の秋頃にホームセンターを散策していたところ、チューリップの球根が安売りしてました。私は最近、庭いじりが趣味なのでチューリップやヒヤシンスなど球根を50個ほど購入て、庭に植えてみました。

昨年中に芽を出すのかと観察しておりましたが、一向に芽が出る気配がなく、「腐ってしまったか」とがっかりしておりました。すると、2月ころからヒヤシンスが芽を出しはじめ、ついにチューリップの芽が発見されました。50本のチューリップはまもなく満開になりましたが、花の命は短いもので、あっという間に花びらは落ちてしまいました。

今度はグラジオラスです。チューリップのように1-2週間で散ってしまわぬように球根を一週間に20個くらいずつ植え続けています。ただいま200個近くは植え終わり、ニョキニョキと芽が出始めてます。やっと今日、5月に植えたグラジオラスが咲きました。このまま咲き続ければ、秋口まで楽しめそうです。

植物を育てているといろいろ考えます。種を植えると 普通は芽が出て育ちます。しかし、その中には順調に育つものもあれば、途中で枯れてしまうものもあります。それには肥料をあげたり、害虫をとってあげることが影響しています。それでも順調に育って大輪を咲かすもの、小さな花しかさかせないもの さまざまです。そして花を咲かせた後は種の保存のために種を作って枯れていくのです。つい人間に例えて考えてしまいますが、私も枯れる前に 自分に肥料を与え(美容手術をして) 枯れてないように見せようと計画しております。

Gladiolus.jpg

大学病院で働いていると、若い頃は1年から2年単位であちこちの病院に修行に出されます。ですから、東京に彼女がいても1年でまた遠くに行かされて会えなくなるので寂しい思いをするのです。

inko.jpg
千葉県の柏病院に赴任したときは寂しさのあまり手乗りのボタンインコを飼いました。医局の中に鳥かごを置いて、当直のときも一緒に遊んだりしておりました。医局の先生たちが帰ったのをみはからって、医局に放して運動させたりもしてました。(他の先生の本の上に糞などもおとしていたようです。笑。)名前はピーちゃんです。とてもなついており、私の頭の上に乗ったり、肩の上に乗って耳たぶを噛んだり、寝るときも枕元で休んだりしていたものです。

ある寝苦しい夜のあけた朝、起きてみると、いつも起こしてくれるピーちゃんがいません。「ピーちゃん!ピーちゃん!」部屋中を探しましたがおりません。変だなあ、と思って枕元をみたらピーちゃんが硬くなって横たわっておりました。すぐに心臓マッサージと人工呼吸を施しましたが、すでに天国にいっておりました。死因は圧死です。私の寝相が悪いために、寝返りをうったときにつぶしてしまったようです(涙)。

あまりのショックでピーちゃんを埋葬するのも2か月くらいかかってしまいましたが、東京にもどったときに家の近くの公園の隅っこにこっそりと埋葬しました。

今でもペットショップに行くと、ボタンインコを探してます。あんなになついてくれるボタンインコはあれ以来出会うことは無く、「ピーちゃん」と指をさしだすと、かみつかれてしまいます。

吉野家の牛丼をはじめて食べたのは、大学受験で新橋のホテルに泊まっていたときでした。母が夜食で買ってきてくれたのです。とてもおいしくて感激した記憶があります。最近でも昼食として週に一度くらいは食べてます。

つまらない話ですが、カレーやかつ丼、牛丼を食べるときには、いろいろ考えてしまいます。ごはん一口におかずがついている食べ方をしたいので、ごはんとおかずの量を真剣に観察します。調子よくおかずばかり食べてしまうと、最後にごはんだけが残ってしまうからです。牛丼を食べるときはオーダーのときから悩みます。

gyudon.jpg
牛丼並380円(ご飯1人前・牛肉1人前)

牛皿並280円(牛肉1人前)

牛丼特盛630円(ご飯1.5人前・牛肉2人前)

牛丼並と牛皿並で頼むと、一口分のごはんに必ず牛肉がついてくるので、私にはベストなのです。しかし、これで頼むと、660円なので特盛の630円にしたほうが、ごはんが多くついて、さらに30円の得なのです。しかし、特盛ではダイエット中の私に1.5人前のごはんは多すぎますし、一口分のご飯に牛肉一枚のペースでは、ごはんが余ってしまいます。食べ物を残すのが嫌いな私は、最後は取り放題のベニショウガだらけにしてして食べなければ気がすみません。

最近は良い食べ方を考えました。食欲旺盛な若い男性と食べにいくのです。それで特盛を2人前頼んで、自分のご飯をあげてしまうのです。そうすれば、若い子は特盛をおごってもらってハッピー、ごはんのおまけまでついてさらにハッピー。私もベストな食べ方で食べれてハッピー。吉野家も売上あがってハッピー。三者両得ですよね。

こんなこと考えるオレって小さな人間でしょうか。がっくり(笑)

去年の春、兵庫県尼崎市から大阪府豊中市に引越ししました。独り者といっても、引越し屋さんに荷物の量は四人家族分といわれました。確かに、100kg近い梅干しにレコード400枚、使えなくなったオーディオ類多数、数百冊の本、集めた食器300枚、20年使っている本棚、ベッド、高校一年に買ってもらった自転車、バイクの改造用パーツがダンボール10個分など使えないものまで持っているので引越し屋さんも大変です。引越しは二日にかけて行なうとのことでした。

引越し当日、10トンと4トントラックで引越し屋さんがいらっしゃいました。引越しがはじまりました。荷物が次々とトラックの中に吸い込まれていきます。私はそれを見届けて仕事に行きました。当日は予定通りです。翌日も荷物はトラックの中にどんどん吸い込まれていきます。引越しが終わったころに尼崎の家に忘れ物がないように見にきました。家の中は寂しげです。リッツを開業して以来、住んでいた場所にいろいろな思いをはせていました。家に向かって「7年間ありがとう。仕事は順調、私生活も順調、マメまでお世話になりました。」あれ?マメは?マメがいない!

即、警察に電話しました。早く探さないと保健所で処分されてしまいます。

私「もしもし!犬がいなくなったんですが、そちらにマメは届いてませんか?いや豆柴犬なんですが。」

警察「なんか特徴はありませんか?」

私「今日はピーターパンの服を着てます。」

警察「ここにいますよ!!」

私「本当ですか?今からすぐに行きます。」

 なんで警察にいるのかなんて考えてませんでした。考えてみたら連絡すべきは保健所だったかもしれません。よくよく聞くと、タクシーの運転手さんがドアをあけて食事をとっていたところ、後方座席に影が。あれ?思って後ろを振り向くとマメが座っていたらしいのです。確かにマメを連れてあちこちに遠出してたので、車のドアをあけると、すぐにのりこむ癖があるのです。でも本当にホッとしました。

翌日、運転手さんにお礼の電話をして、お礼の品とマメが乗ったタクシー代を送らせていただきました。